キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年2月28日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日読んだ箇所から↓

民の逃げ去ったことが、エジプトの王に伝えられたので、パロとその家来たちとは、民に対する考えを変えて言った、「われわれはなぜこのようにイスラエルを去らせて、われわれに仕えさせないようにしたのであろう」。それでパロは戦車を整え、みずからその民を率い、また、えり抜きの戦車六百と、エジプトのすべての戦車およびすべての指揮者たちを率いた。主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々のあとを追った。イスラエルの人々は意気揚々と出たのである。エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。


出エジプト記 14:5-9


エジプトの軍隊がイスラエル人に追いついてしまいました!
荒野で死ぬことを恐れるイスラエル人にモーセは語りかけます。


モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。


出エジプト記 14:13-14


モーセの神様への信頼が伺える言葉ですね。
「神様が代わりに戦ってくれる」と信じているからこそ、クリスチャンは悲しみや辛さの中でも希望を捨てずに強くあれるのだと思うのです。


主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。


出エジプト記 14:15-18


モーセの信頼に、神様はちゃんと応えてくれました。
主なる神が唯一の神であることを知ることができたら、イスラエル人以外も救われるのかしら。
さて、いよいよあの場面ですね!(((o(*゚▽゚*)o)))


このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち、エジプトびとの部隊とイスラエルびとの部隊との間にきたので、そこに雲とやみがあり夜もすがら、かれとこれと近づくことなく、夜がすぎた。モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。


出エジプト記 14:19-22


海が!海が!分かれたーー!(謎テンション)
潮の満ち引きではなく、風で水を動かすことで海を割っているのですね。
確か男性だけで60万人居るんだよなぁ…。その集団が割れた海を一気に渡るんだなぁ…。すごいなぁ…。


エジプトびとは追ってきて、パロのすべての馬と戦車と騎兵とは、彼らのあとについて海の中にはいった。暁の更に、主は火と雲の柱のうちからエジプトびとの軍勢を見おろして、エジプトびとの軍勢を乱し、その戦車の輪をきしらせて、進むのに重くされたので、エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」。


出エジプト記 14:23-25


エジプトの軍隊は当然追ってきましたが、神様の御業によって先に進むのを阻まれています…。
エジプト人の中にも、イスラエル人が神様に守られていることを悟った人がいるようです。


そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、ひとりも残らなかった。しかし、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。このように、主はこの日イスラエルをエジプトびとの手から救われた。イスラエルはエジプトびとが海べに死んでいるのを見た。イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。


出エジプト記 14:26-31


エジプト人は全て海に飲み込まれてしまいました…。神様の大きな御業を目の当たりにした彼らは、死後の裁きで天国に行けるのかしら?


今日の箇所は有名な場面が登場したのでワクワクしながら読みました!
エジプトを出るまでが中々長かったですが、多分カナンの地に行くまでも長いんでしょうねぇ…。

2019年2月26日、27日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

昨日、投稿し忘れたので、昨日と今日読んだ箇所から↓


モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます」。彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。


出エジプト記 11:4-8


夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。


出エジプト記 12:29-32


パロは自分の子どもを失ってようやく主なる神に対して心を頑なにするのをやめたようです。

本当に恐るべき存在を知らないと、自分の大切な人さえ失ってしまうんだな…。

あと、この期に及んで「わたしを祝福しなさい。」とか言っちゃうんだな、パロは。


こうしてエジプトびとは民をせき立てて、すみやかに国を去らせようとした。彼らは「われわれはみな死ぬ」と思ったからである。民はまだパン種を入れない練り粉を、こばちのまま着物に包んで肩に負った。そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。また多くの入り混じった群衆および羊、牛など非常に多くの家畜も彼らと共に上った。そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。


出エジプト記 12:33-40


創世記でアブラハムが神様に言われたことが成就しましたね!↓


時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。


創世記 15:13-16


アブラハムの子孫は財産はエジプト人から奪うことができたのに、食料は十分持っていくことができなかったんだな…。

男性だけでも60万人だから、相当大きな集団だなぁ…。大丈夫なのかな。


神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた。イスラエルの人々は武装してエジプトの国を出て、上った。そのときモーセはヨセフの遺骸を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みられるであろう。そのとき、あなたがたは、わたしの遺骸を携えて、ここから上って行かなければならない」と言って、イスラエルの人々に固く誓わせたからである。


出エジプト記 13:18-19


紅海に向かうということは、次の章辺りであの有名な場面が登場しそうですね(*゚∀゚*)

ヨセフ、亡くなってから長い年月が経ってしまいましたが、ちゃんと故郷に葬ってもらえそうですね。


主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。


出エジプト記 13:21-22


雲の柱に火の柱…。なんだか素敵な表現!

個人的な話ですが、私は今年就職先を探さなければいけないので、この場面の神様のような力強い導きを求めたいです。

2019年2月25日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

先に言っておきますが、今日読んだ箇所でもイスラエル人はエジプトを出て行けてません( ̄▽ ̄)


モーセとアロンはパロのもとに行って彼に言った、「ヘブルびとの神、主はこう仰せられる、『いつまで、あなたは、わたしに屈伏することを拒むのですか。民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし、わたしの民を去らせることを拒むならば、見よ、あす、わたしはいなごを、あなたの領土にはいらせるであろう。それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。またそれはあなたの家とあなたのすべての家来の家、および、すべてのエジプトびとの家に満ちるであろう。このようなことは、あなたの父たちも、また、祖父たちも、彼らが地上にあった日から今日に至るまで、かつて見たことのないものである』と」。そして彼は身をめぐらして、パロのもとを出て行った。パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。


出エジプト記 10:3-7


今度はイナゴですよ…。雹を生き残った作物もイナゴが食い尽くしてしまったらエジプトの人々の食糧がなくなってしまいますよ…。

家来たちも神様の恐ろしさに気づいているのに、パロの心は相変わらず頑なです…。


そこで、モーセとアロンは、また、パロのもとに召し出された。パロは彼らに言った、「行って、あなたがたの神、主に仕えなさい。しかし、行くものはだれだれか」。モーセは言った、「わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。わたしたちは主の祭を執り行わなければならないのですから」。パロは彼らに言った、「万一、わたしが、あなたがたに子供を連れてまで去らせるようなことがあれば、主があなたがたと共にいますがよい。あなたがたは悪いたくらみをしている。それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」。彼らは、ついにパロの前から追い出された。主はモーセに言われた、「あなたの手をエジプトの地の上にさし伸べて、エジプトの地にいなごをのぼらせ、地のすべての青物、すなわち、雹が打ち残したものを、ことごとく食べさせなさい」。そこでモーセはエジプトの地の上に、つえをさし伸べたので、主は終日、終夜、東風を地に吹かせられた。朝となって、東風は、いなごを運んできた。


出エジプト記 10:8-13


パロ、ちょっと譲歩したかなと思ったら、やっぱり神様はイスラエル人全員をエジプトから出さないと許さないようです。

そんなにパロは奴隷要員としてのイスラエル人を失うのが惜しいのか…。


そこで、パロは、急いでモーセとアロンを召して言った、「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」。そこで彼はパロのところから出て、主に祈願したので、主は、はなはだ強い西風に変らせ、いなごを吹き上げて、これを紅海に追いやられたので、エジプト全土には一つのいなごも残らなかった。しかし、主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々を去らせなかった。


出エジプト記 10:16-20


パロは赦しを乞い、それが神様から認められたようですが、神様はまたパロの心を頑なにしてしまいました…。

こうしている間にもイスラエル人たちは奴隷として酷使されているのですよね…。


主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。


出エジプト記 10:21-23


よくもまあ次々と新しい不思議現象を起こすものである…。

三日間何も見えず、何もできないって、恐ろしいですね…。


そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。しかし、モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。けれども、主がパロの心をかたくなにされたので、パロは彼らを去らせようとしなかった。それでパロはモーセに言った、「わたしの所から去りなさい。心して、わたしの顔は二度と見てはならない。わたしの顔を見る日には、あなたの命はないであろう」。モーセは言った、「よくぞ仰せられました。わたしは、二度と、あなたの顔を見ないでしょう」。


出エジプト記 10:24-29


パロ、またちょっと譲歩しましたがやっぱり心を頑なにされてしまいました…。

モーセが「よくぞ仰せられました。わたしは、二度と、あなたの顔を見ないでしょう。」と言っていましたがどういうことでしょう…?

2019年2月24日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

主はモーセに言われた、「パロのもとに行って、彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主はこう仰せられる、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。あなたがもし彼らを去らせることを拒んで、なお彼らを留めおくならば、主の手は最も激しい疫病をもって、野にいるあなたの家畜、すなわち馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に臨むであろう。しかし、主はイスラエルの家畜と、エジプトの家畜を区別され、すべてイスラエルの人々に属するものには一頭も死ぬものがないであろう」と』」。主は、また、時を定めて仰せられた、「あす、主はこのことを国に行うであろう」。あくる日、主はこのことを行われたので、エジプトびとの家畜はみな死んだ。しかし、イスラエルの人々の家畜は一頭も死ななかった。パロは人をつかわして見させたが、イスラエルの家畜は一頭も死んでいなかった。それでもパロの心はかたくなで、民を去らせなかった。


出エジプト記 9:1-7


パロが心を頑なにしているうちに、どんどんエジプトに被害が広がっていきます…。
家畜がみんな死んでしまったら、エジプト人たちは毎日の糧を得るのが難しくなっていきますよね…。


主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたは、かまどのすすを両手いっぱい取り、それをモーセはパロの目の前で天にむかって、まき散らしなさい。それはエジプトの全国にわたって、細かいちりとなり、エジプト全国で人と獣に付いて、うみの出るはれものとなるであろう」。そこで彼らは、かまどのすすを取ってパロの前に立ち、モーセは天にむかってこれをまき散らしたので、人と獣に付いて、うみの出るはれものとなった。魔術師らは、はれもののためにモーセの前に立つことができなかった。はれものが魔術師らと、すべてのエジプトびとに生じたからである。しかし、主はパロの心をかたくなにされたので、彼は主がモーセに語られたように、彼らの言うことを聞かなかった。


出エジプト記 9:8-12


アトピーには分かる、これはめちゃくちゃ辛いやつ…。
魔術師たちは腫物で人に見せられない見た目になったからモーセの前に立つことができなくなったように読めますが、身体的な辛さによって外に出られなくなってしまった可能性もあるな、と一アトピー性皮膚炎患者は思います。
しかし、何をどうすればパロの心は頑なでなくなるのだろう…。


主はまたモーセに言われた、「朝早く起き、パロの前に立って、彼に言いなさい、『ヘブルびとの神、主はこう仰せられる、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。わたしは、こんどは、もろもろの災を、あなたと、あなたの家来と、あなたの民にくだし、わたしに並ぶものが全地にないことを知らせるであろう。わたしがもし、手をさし伸べ、疫病をもって、あなたと、あなたの民を打っていたならば、あなたは地から断ち滅ぼされていたであろう。しかし、わたしがあなたをながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない。それに、あなたはなお、わたしの民にむかって、おのれを高くし、彼らを去らせようとしない。ゆえに、あすの今ごろ、わたしは恐ろしく大きな雹を降らせるであろう。それはエジプトの国が始まった日から今まで、かつてなかったほどのものである。それゆえ、いま、人をやって、あなたの家畜と、あなたが野にもっているすべてのものを、のがれさせなさい。人も獣も、すべて野にあって家に帰らないものは降る雹に打たれて死ぬであろう」と』」。パロの家来のうち、主の言葉をおそれる者は、そのしもべと家畜を家にのがれさせたが、主の言葉を意にとめないものは、そのしもべと家畜を野に残しておいた。


出エジプト記 9:13-21


神様がパロの心を頑なにしていたのは、やっぱりご自身の栄光をエジプトで表すためだったみたいです。
神様が手加減していたみたいなことが書かれていますが、確かにナイル川の水を濁らせ、害虫を大量発生させ、皮膚病も流行らせたら一国が滅びてもおかしくない状況ですものね。
ただ、神様が御業を働かせている以上にパロの心が頑なになってしまっているようにも読めます…。
パロの家来の中にも主なる神を恐れる人が居たのに…。


そして雹が降り、雹の間に火がひらめき渡った。雹は恐ろしく大きく、エジプト全国には、国をなしてこのかた、かつてないものであった。雹はエジプト全国にわたって、すべて畑にいる人と獣を打った。雹はまた畑のすべての青物を打ち、野のもろもろの木を折り砕いた。ただイスラエルの人々のいたゴセンの地には、雹が降らなかった。そこで、パロは人をつかわし、モーセとアロンを召して言った、「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。主に祈願してください。この雷と雹はもうじゅうぶんです。わたしはあなたがたを去らせます。もはやとどまらなくてもよろしい」。


出エジプト記 9:24-28


「火がきらめき渡る」雹ってどんなんなんだろ…。静電気を帯びて火花が散っているのかしら…?
ともかく、威力のある雹を目の当たりにしてパロは自分の罪と主なる神に気づいたようです!


モーセは彼に言った、「わたしは町を出ると、すぐ、主にむかってわたしの手を伸べひろげます。すると雷はやみ、雹はもはや降らなくなり、あなたは、地が主のものであることを知られましょう。しかし、あなたとあなたの家来たちは、なお、神なる主を恐れないことを、わたしは知っています」。


出エジプト記 9:29-30


モーセはパロのもとを去り、町を出て、主にむかって手を伸べひろげたので、雷と雹はやみ、雨は地に降らなくなった。ところがパロは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪を犯し、心をかたくなにした。彼も家来も、そうであった。すなわちパロは心をかたくなにし、主がモーセによって語られたように、イスラエルの人々を去らせなかった。


出エジプト記 9:33-35


パローーーーーー!!!!!おい、パローーーーーー!!!!!
恐ろしい状況から一旦離れると、パロは神様の恐ろしさを忘れてしまうようですね…。
いやしかし、こう何度もモーセとの約束を破るような不誠実なパロは、まず人としてアカンですね。(私も人のことを言える立場ではありませんが。)

2019年2月23日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

主はモーセに言われた、「あなたはパロのところに行って言いなさい、『主はこう仰せられます、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。しかし、去らせることを拒むならば、見よ、わたしは、かえるをもって、あなたの領土を、ことごとく撃つであろう。ナイル川にかえるが群がり、のぼって、あなたの家、あなたの寝室にはいり、寝台にのぼり、あなたの家来と民の家にはいり、またあなたのかまどや、こね鉢にはいり、あなたと、あなたの民と、すべての家来のからだに、はい上がるであろう」と』」。主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『つえを持って、手を川の上、流れの上、、池の上にさし伸べ、かえるをエジプトの地にのぼらせなさい』と」。アロンが手をエジプトの水の上にさし伸べたので、かえるはのぼってエジプトの地をおおった。


出エジプト記 8:1-6


「何故カエル?」と思ったら、これはなかなかしんどい状況ですね…。
カエル一匹か二匹だと可愛いのですが、何事も過ぎたるは及ばざるがごとしですね。


パロはモーセとアロンを召して言った、「かえるをわたしと、わたしの民から取り去るように主に願ってください。そのときわたしはこの民を去らせて、主に犠牲をささげさせるでしょう」。モーセはパロに言った、「あなたと、あなたの家来と、あなたの民のために、わたしがいつ願って、このかえるを、あなたとあなたの家から断って、ナイル川だけにとどまらせるべきか、きめてください」。パロは言った、「明日」。モーセは言った、「仰せのとおりになって、わたしたちの神、主に並ぶもののないことを、あなたが知られますように。そして、かえるはあなたと、あなたの家と、あなたの家来と、あなたの民を離れてナイル川にだけとどまるでしょう」。こうしてモーセとアロンはパロを離れて出た。モーセは主がパロにつかわされたかえるの事について、主に呼び求めたので、主はモーセのことばのようにされ、かえるは家から、庭から、また畑から死に絶えた。これをひと山ひと山に積んだので、地は臭くなった。ところがパロは息つくひまのできたのを見て、主が言われたように、その心をかたくなにして彼らの言うことを聞かなかった。


出エジプト記 8:8-15


腐臭を放つ大量のカエルの死骸……オエッ。
モーセとアロンは誠実さをもってパロにエジプトから出たいと要求しているのに、パロは不誠実にもモーセとアロンの要求を忘れていますね…。自分勝手な君主だな…。


主はモーセに言われた、「あなたはアロンに言いなさい、『あなたのつえをさし伸べて地のちりを打ち、それをエジプトの全国にわたって、ぶよとならせなさい』と」。彼らはそのように行った。すなわちアロンはそのつえをとって手をさし伸べ、地のちりを打ったので、ぶよは人と家畜についた。すなわち、地のちりはみなエジプトの全国にわたって、ぶよとなった。魔術師らも秘術をもって同じように行ない、ぶよを出そうとしたが、彼らにはできなかった。ぶよが人と家畜についたので、魔術師らはパロに言った、「これは神の指です」。しかし主の言われたように、パロの心はかたくなになって、彼らのいうことを聞かなかった。


出エジプト記 8:16-19


今度は大量のブヨ……オエッ。
ブヨって血を吸う虫ですよね。カエルより実害が大きそうです…。
ところで、魔術師たちは段々と神様の御業に気づいているようですが、パロの心は相変わらず頑なです…。


主はモーセに言われた、「あなたは朝早く起きてパロの前に立ちなさい。ちょうど彼は水のところに出ているから彼に言いなさい、『主はこう仰せられる、「わたしの民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。あなたがわたしの民を去らせないならば、わたしは、あなたとあなたの家来と、あなたの民とあなたの家とに、あぶの群れをつかわすであろう。エジプトびとの家々は、あぶの群れで満ち、彼らの踏む地もまた、そうなるであろう。その日わたしは、わたしの民の住むゴセンの地を区別して、そこにあぶの群れを入れないであろう。国の中でわたしが主であることをあなたが知るためである。わたしはわたしの民とあなたの民の間に区別をおく。このしるしは、あす起るであろう」と』」。主はそのようにされたので、おびただしいあぶが、パロの家と、その家来の家と、エジプトの全国にはいってきて、地はあぶの群れのために害をうけた。


出エジプト記 8:20-24


さらに大きな血を吸う虫が大量に…!
ところで、私はイエス・キリストの後に生きているのでアブラハムの子孫でなくても神様の救いを受けられていますが、当時は神様に選ばれた民とそれ以外の民とで明確な区別があるようですね…。
つい、この時神様に選ばれなかった民族には救いがあるのだろうかと考えてしまいます。


そこで、パロはモーセとアロンを召して言った、「あなたがたは行ってこの国の内で、あなたがたの神に犠牲をささげなさい」。モーセは言った、「そうすることはできません。わたしたちはエジプトびとの忌むものを犠牲として、わたしたちの神、主にささげるからです。もし、エジプトびとの目の前で、彼らの忌むものを犠牲にささげるならば、彼らはわたしたちを石で打たないでしょうか。わたしたちは三日の道のりほど、荒野にはいって、わたしたちの神、主に犠牲をささげ、主がわたしたちに命じられるようにしなければなりません」。パロは言った、「わたしはあなたがたを去らせ、荒野で、あなたがたの神、主に犠牲をささげさせよう。ただあまり遠くへ行ってはならない。わたしのために祈願しなさい」。モーセは言った、「わたしはあなたのもとから出て行って主に祈願しましょう。あすあぶの群れがパロと、その家来と、その民から離れるでしょう。ただパロはまた欺いて、民が主に犠牲をささげに行くのをとめないようにしてください」。


出エジプト記 8:25-29


パロ、モーセに譲歩してきましたよ!
エジプト人にとってはモーセ達の神は異教の神ですが、段々と無視できない存在になってきたようです。
このまま、イスラエルの民たちはエジプトを出られるのかしら…?


こうしてモーセはパロのもとを出て、主に祈願したので、主はモーセの言葉のようにされた。すなわち、あぶの群れをパロと、その家来と、その民から取り去られたので、一つも残らなかった。しかしパロはこんどもまた、その心をかたくなにして民を去らせなかった。


出エジプト記 8:30-32


パローーーーーー!!!!!
いい加減にせえや、パローーーーーーーー!!!!!!!

2019年2月22日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

忘れるところだったぁ!!
日付変わりまして、昨日読んだ箇所から↓

主はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」。神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主である』と」。モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった。

出エジプト記 6:1-9

クリスチャンはよく神様のことを「主」と呼びますが、神様はモーセに対して始めて「主」と名乗ったのですね!
「主」の意味を改めて考えると、神様は世界の全てを創った創造「主」であり、世界の全てを御手の中に置く「主」でもあり、クリスチャンが僕として仕える「主」でもあることを表しているのですね。
そんな神様はモーセの先祖とした契約を思い出し、その契約の地までモーセたちを導いてくれるようです。
こんな風に正しく、義なる方だから、私は神様に仕えようと思えるのだと思います。

この後は何やら家系図が連なっていてストーリーが進まなかったのでもう一章読みました。
家系図にもきっと大事な意味があるのでしょうけど、聖書初心者の私には難しいです_(:3 」∠)_

主はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしがあなたに語ることは、みなエジプトの王パロに語りなさい」。しかしモーセは主にむかって言った、「ごらんのとおり、わたしは、くちびるに割礼のない者です。パロがどうしてわたしの言うことを聞きいれましょうか」。
主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。そしてあなたの兄弟アロンはパロに告げて、イスラエルの人々をその国から去らせるようにさせなければならない。しかし、わたしはパロの心をかたくなにするので、わたしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、パロはあなたがたの言うことを聞かないであろう。それでわたしは手をエジプトの上に加え、大いなるさばきをくだして、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの人々を、エジプトの国から導き出すであろう。わたしが手をエジプトの上にさし伸べて、イスラエルの人々を彼らのうちから導き出す時、エジプトびとはわたしが主であることを知るようになるであろう」。

出エジプト記 6:29 - 7:5

モーセをもう一度パロの元に行かせるのに、神様はパロの心を頑なにしちゃうんですね…。
パロの心を柔らかくしてさっさとモーセ達をエジプトから連れ出してあげたらいいのに、と思わなくもないですが、きっとエジプトの人々に神様を知らせるために必要なのでしょうね。

それで、モーセとアロンはパロのところに行き、主の命じられたとおりにおこなった。すなわちアロンはそのつえを、パロとその家来たちの前に投げると、それはへびになった。そこでパロもまた知者と魔法使を召し寄せた。これらのエジプトの魔術師らもまた、その秘術をもって同じように行った。すなわち彼らは、おのおのそのつえを投げたが、それらはへびになった。しかし、アロンのつえは彼らのつえを、のみつくした。けれども、パロの心はかたくなになって、主の言われたように、彼らの言うことを聞かなかった。

出エジプト記 7:10-13

あらあら、神様の印がエジプトの魔術師たちに真似されてしまいました…。たしかに、奇術の技術を使えば似たようなことはできそうですもんね…。
アロンの杖が他の杖を呑み込んだのはタネも仕掛けもなく変化した蛇だったからかしら。
あるいは、神様の威光を表すためかしら。

モーセとアロンは主の命じられたようにおこなった。すなわち、彼はパロとその家来たちの目の前で、つえをあげてナイル川の水を打つと、川の水は、ことごとく血に変った。それで川の魚は死に、川は臭くなり、エジプトびとは川の水を飲むことができなくなった。そしてエジプト全国にわたって血があった。エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。しかし、主の言われたように、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。パロは身をめぐらして家に入り、またこのことをも心に留めなかった。すべてのエジプトびとはナイル川の水が飲めなかったので、飲む水を得ようと、川のまわりを掘った。主がナイル川を打たれてのち七日を経た。

出エジプト記 7:20-25

これ、エジプトの民に深刻な被害が出ていると思うのですが、それでも心を頑ななままにするパロは大分冷酷で愚かな君主ですね…。
「エジプトはナイルのたまもの」という言葉があるくらいだから、エジプトの民はナイル川の水を頼って生きているのだろうに、パロはナイル川の惨状を無視して籠ってしまうなんて…。
どうしたらパロの心は柔らかくなって、モーセたちはエジプトから出られるようになるのかしら?

2019年2月21日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

その後、モーセとアロンは行ってパロに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしの民を去らせ、荒野で、わたしのために祭をさせなさい』と」。パロは言った、「主とはいったい何者か。わたしがその声に聞き従ってイスラエルを去らせなければならないのか。わたしは主を知らない。またイスラエルを去らせはしない」。彼らは言った、「ヘブルびとの神がわたしたちに現れました。どうか、わたしたちを三日の道のりほど荒野に行かせ、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください。そうしなければ主は疫病か、つるぎをもって、わたしたちを悩まされるからです」。エジプトの王は彼らに言った、「モーセとアロンよ、あなたがたは、なぜ民に働きをやめさせようとするのか。自分の労役につくがよい」。パロはまた言った、「見よ、今や土民の数は多い。しかも、あなたがたは彼らに労役を休ませようとするのか」。

出エジプト記 5:1-5

パロの心を頑なにすると神様は言っていましたが、イスラエルの民が仕事をサボろうとしていると思われるとは…。

その日、パロは民を追い使う者と、民のかしらたちに命じて言った、「あなたがたは、れんがを作るためのわらを、もはや、今までのように、この民に与えてはならない。彼らに自分で行って、わらを集めさせなさい。また前に作っていた、れんがの数どおりに彼らに作らせ、それを減らしてはならない。彼らはなまけ者だ。それだから、彼らは叫んで、『行ってわたしたちの神に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。この人々の労役を重くして、働かせ、偽りの言葉に心を寄せさせぬようにしなさい」。

出エジプト記 5:6-9

神様の言葉通りに行動したのに、更なる艱難がイスラエルの民に降りかかります( ; ; )
信仰のための行動を怠けていると思われるなんて、心が痛みます…。私も礼拝のためにサークル活動に参加できないことが増えたのですが、怠けていると思われていないかちょっと心配になってきました…。

パロの追い使う者たちがイスラエルの人々の上に立てたかしらたちは、打たれて、「なぜ、あなたがたは、れんが作りの仕事を、きょうも、前のように仕上げないのか」と言われた。そこで、イスラエルの人々のかしらたちはパロのところに行き、叫んで言った、「あなたはなぜ、しもべどもにこんなことをなさるのですか。しもべどもは、わらを与えられず、しかも彼らはわたしたちに、『れんがは作れ』と言うのです。その上、しもべどもは打たれています。罪はあなたの民にあるのです」。パロは言った、「あなたがたは、なまけ者だ、なまけ者だ。それだから、『行って、主に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。さあ、行って働きなさい。わらは与えないが、なおあなたがたは定めた数のれんがを納めなければならない」。

出エジプト記 5:14-18

パロ、イスラエルの民に対して二回も「なまけものだ」と言ってますね…。神様に心を頑なにされただけでなく、イスラエルの民に対しての憎しみも増えているような…。
いや、そもそも民族差別は心の頑なさから来るのかもしれない…。

イスラエルの人々のかしらたちは、「れんがの日ごとの分を減らしてはならない」と言われたので、悪い事態になったことを知った。彼らがパロを離れて出てきた時、彼らに会おうとして立っていたモーセとアロンに会ったので、彼らに言った、「主があなたがたをごらんになって、さばかれますように。あなたがたは、わたしたちをパロとその家来たちにきらわせ、つるぎを彼らの手に渡して、殺させようとしておられるのです」。モーセは主のもとに帰って言った、「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしをつかわされたのですか。わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません」。

出エジプト記 5:19-23

信仰によってこの世で迫害を受けるのはいつの世も同じ…。そして、モーセのような「神よ、何故?」という祈りもずっと繰り返されてきたのだと思うのです。
3000年後に生きる私はこの後の展開を知っているので「もうちょっと耐えればエジプトを出られるよ!」と思えるのですが、当時のイスラエルの民はいつまで苦しみが続くのか分からずに闇の中にいたのでしょうね…。