キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年2日20日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 


今朝読んだ箇所から↓

モーセは言った、「しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう、『主はあなたに現れなかった』と」。主は彼に言われた、「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「つえです」。また言われた、「それを地に投げなさい」。彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた。主はモーセに言われた、「あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。――そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかでつえとなった。――これは、彼らの先祖たちの神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、あなたに現れたのを、彼らに信じさせるためである」。主はまた彼に言われた、「あなたの手をふところに入れなさい」。彼が手をふところに入れ、それを出すと、手は、らい病にかかって、雪のように白くなっていた。主は言われた、「手をふところにもどしなさい」。彼は手をふところにもどし、それをふところから出して見ると、回復して、もとの肉のようになっていた。主は言われた、「彼らがもしあなたを信ぜず、また初めのしるしを認めないならば、後のしるしは信じるであろう。彼らがもしこの二つのしるしをも信ぜず、あなたの声に聞き従わないならば、あなたはナイル川の水を取って、かわいた地に注ぎなさい。あなたがナイル川から取った水は、かわいた地で血となるであろう」。

出エジプト記 4:1-9

確かに、モーセがいきなり「神が私にイスラエルの民を率いてエジプトを出て行くように言われた!一緒に行こう!」って言っても信じられませんもんね…。
イエス・キリストも地上で様々な奇跡を起こしましたが、それもイエスが神様から遣わされたことを示すためだと思います。

モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。主は彼に言われた、「だれが人に口を授けたのか。おし、耳しい、目あき、目しいにだれがするのか。主なるわたしではないか。それゆえ行きなさい。わたしはあなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えるであろう」。

出エジプト記 4:10-12

一つの民族を率いるって、モーセでなくてもすごくプレッシャーを感じて当然だと思うのです。
神様の言葉が力強いです!
私も、神様から与えられたものを全て最大限に活かしたいなぁ。

この後、神様はモーセにレビ人の兄弟、アロンを頼るように提案され、妻と子どもを連れてエジプトに向かいます。

主はモーセに言われた、「あなたがエジプトに帰ったとき、わたしがあなたの手に授けた不思議を、みなパロの前で行いなさい。しかし、わたしが彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。

出エジプト記 4:21-23

なんか不穏な感じ…。エジプトを出ることは簡単ではないようです。

主はアロンに言われた、「荒野に行ってモーセに会いなさい」。彼は行って神の山でモーセに会い、これに口づけした。モーセは自分をつかわされた主のすべての言葉と、命じられたすべてのしるしをアロンに告げた。そこでモーセとアロンは行ってイスラエルの人々の長老たちをみな集めた。そしてアロンは主がモーセに語られた言葉を、ことごとく告げた。また彼は民の前でしるしを行ったので、民は信じた。彼らは主がイスラエルの人々を顧み、その苦しみを見られたのを聞き、伏して礼拝した。

出エジプト記 4:27-31

イスラエルの民はモーセのことを信じたようです!神様の御業ですね!
辛い状況の中でも神様に見捨てられてなかったことを知ることができて、みんな嬉しかっただろうなぁ。

2019年2月17-19日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

一昨日から出エジプト記読み始めていたのに投稿してなかったですね…。
一昨日読んだ箇所から今朝読んだ箇所にかけてまとめて投稿します↓


そして、ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。


出エジプト記 1:6-11


神様が言っていたように、イスラエルの子孫たちは繁栄したようですね!
しかし、エジプトではヨセフが飢饉からエジプトの民を救ったことが忘れ去られてしまったようです…。
いつの時代も、どこの国でも、マイノリティーはあらぬ誤解を受けて迫害されてしまうのですね…。


またエジプトの王は、ヘブルの女のために取上げをする助産婦でひとりは名をシフラといい、他のひとりは名をプアという者にさとして、言った、「ヘブルの女のために助産をするとき、産み台の上を見て、もし男の子ならばそれを殺し、女の子ならば生かしておきなさい」。しかし助産婦たちは神をおそれ、エジプトの王が彼らに命じたようにはせず、男の子を生かしておいた。エジプトの王は助産婦たちを召して言った、「あなたがたはなぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか」。助産婦たちはパロに言った、「ヘブルの女はエジプトの女とは違い、彼女たちは健やかで助産婦が行く前に産んでしまいます」。


出エジプト記 1:15-19


助産婦たちのパロへの返しが、なんかスカッとしますね!
神様が王の王であることを知っていたから、助産婦たちはエジプトの王の命令ではなく神様の御心に従ったのだなぁ。


さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。その姉は、彼がどうされるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。


出エジプト記 2:1-10


モーセ登場!!
モーセはヘブル人でなくエジプト人の家で育ったのだなぁ…。良い人に拾われて良かった…。
名前の由来の「水の中から引き出した」も後の展開に繋がりそうですね!


モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労役を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日また出て行って、ふたりのヘブルびとが互に争っているのを見、悪い方の男に言った、「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」。彼は言った、「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」。モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。


出エジプト記 2:11-14


仲間を救おうとやったことでもやり方が行き過ぎていると、同じ仲間からも信頼を得られなくなってしまうのですね…。
もしかしたら、エジプト人の家で育てられたモーセはヘブル人たちからはエジプト人側の人間だと思われていたのかしら…?


この後モーセはミデヤンの地に逃れ、そこの祭司の娘を妻とします。


モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。


出エジプト記 3:1-6


いよいよ神様がモーセの前に現れましたね(`・ω・´)
神様とすぐ分かるような、不思議な登場の仕方ですね。


主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。


出エジプト記 3:7-10


いよいよ「出エジプト」が始まりますね(`・ω・´)
神様はイスラエル人の苦しみや声にならない心の叫びも聞いていらしたんだなぁ。
ところでモーセがパロの元に行くとエジプト人を殺したことで咎を受けそうですが、大丈夫なのかしら…?


モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。


出エジプト記 3:13-15


神様がどういう方なのかを説明するのによく引用される箇所なのですが、よく分からないですね!!\(^o^)/
ちなみに英語版では「わたしは有って有るもの」というところが"I AM WHO I AM"となっていました。
神様という存在は過去から未来にかけて、どんな場所であろうと確固たる存在だ、という感じが伝わってくる気がします。

2019年2月16日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。このために四十日を費した。薬を塗るにはこれほどの日数を要するのである。エジプトびとは七十日の間、彼のために泣いた。

創世記 50:1-3

ヤコブはヨセフにはもちろん、エジプトの民全体にも慕われていたのだなぁ…。
薬って、ミイラにするための薬品かしら?

彼のために泣く日が過ぎて、ヨセフはパロの家の者に言った、「今もしわたしがあなたがたの前に恵みを得るなら、どうかパロに伝えてください。『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます』」。パロは言った、「あなたの父があなたに誓わせたように上って行って彼を葬りなさい」。そこでヨセフは父を葬るために上って行った。彼と共に上った者はパロのもろもろの家来たち、パロの家の長老たち、エジプトの国のもろもろの長老たち、ヨセフの全家とその兄弟たち及びその父の家族であった。ただ子供と羊と牛はゴセンの地に残した。また戦車と騎兵も彼と共に上ったので、その行列はたいそう盛んであった。

創世記 50:4-9

良かった、ヨセフは遺言通りにヤコブを葬れるようです。安心…。
それにしても、エジプトの偉い人や軍隊も加わるとは、『国葬』って感じですね。
それほどヤコブとヨセフがエジプトで重要な役割を果たしたということでしょうねぇ。

ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。そこで彼らはことづけしてヨセフに言った、「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました、『おまえたちはヨセフに言いなさい、「あなたの兄弟たちはあなたに悪をおこなったが、どうかそのとがと罪をゆるしてやってください」』。今どうかあなたの父の神に仕えるしもべらのとがをゆるしてください」。ヨセフはこの言葉を聞いて泣いた。やがて兄弟たちもきて、彼の前に伏して言った、「このとおり、わたしたちはあなたのしもべです」。ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。それゆえ恐れることはいりません。わたしはあなたがたとあなたがたの子供たちを養いましょう」。彼は彼らを慰めて、親切に語った。

創世記 50:15-21

ヨセフが「私が神に代わることができましょうか。」と言っていましたが、恐らく「あなた方を裁くのも、あなた方がひざまずくべき方も私ではなく神である。」と言いたかったのでしょう。
以前クリスチャン友達の側で何とは無しに立膝をついた時に「私にひざまずかないで!」と焦った様子で言われたことを思い出しました。
私もヨセフのように「神が悪を良きに変えてくれた。」と思えたらなぁ…。

このようにしてヨセフは父の家族と共にエジプトに住んだ。そしてヨセフは百十年生きながらえた。ヨセフはエフライムの三代の子孫を見た。マナセの子マキルの子らも生れてヨセフのひざの上に置かれた。ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた。こうしてヨセフは百十歳で死んだ。彼らはこれに薬を塗り、棺に納めて、エジプトに置いた。

創世記 50:22-26

ここで創世記は終わります。
ヨセフの子孫たちはエジプトから元の土地へ戻って行くのかしら。次の『出エジプト記』の展開を期待させる終わり方ですね(`・ω・´)

2019年2月15日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日読んだ箇所から↓


ヤコブはその子らを呼んで言った、「集まりなさい。後の日に、あなたがたの上に起ることを、告げましょう、ヤコブの子らよ、集まって聞け。父イスラエルのことばを聞け。


創世記 49:1-2


ヤコブが息子たちについて何やら預言をするみたいです。

旧約聖書はほとんど初見なのでこの後の展開は分からないのですが、私なりの解釈を入れつつツッコんでいきます。


ルベンよ、あなたはわが長子、わが勢い、わが力のはじめ、威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。しかし、沸き立つ水のようだから、もはや、すぐれた者ではあり得ない。あなたは父の床に上って汚した。ああ、あなたはわが寝床に上った。


創世記 49:3-4


上げて下げるスタイル…。

「父の床に上って汚した。」とあるのは35章でルベンがヤコブの側女と寝たことを言っているのかしら。

ルベンはヨセフが兄弟に殺されようとした時に止めようとしたりと良いイメージがあったのですが、罪の報いをこれから受けるのでしょうか…。


シメオンとレビとは兄弟。彼らのつるぎは暴虐の武器。わが魂よ、彼らの会議に臨むな。わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。彼らは怒りに任せて人を殺し、ほしいままに雄牛の足の筋を切った。彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。わたしは彼らをヤコブのうちに分け、イスラエルのうちに散らそう。


創世記 49:5-7


なんか不穏な感じ…と思ったら、シメオンとレビは34章でデナが辱められた時にそこの町を襲った兄弟たちですね。

ヤコブが死んだ後もシメオンとレビは武器を取って何かするのだろうか。


ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。あなたの手は敵のくびを押え、父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。ユダは、ししの子。わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。彼は雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。だれがこれを起すことができよう。つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。彼はその衣服をぶどう酒で洗い、その着物をぶどうの汁で洗うであろう。その目はぶどう酒によって赤く、その歯は乳によって白い。


創世記 49:8-12


この預言は、ユダが栄えることを言ってるのかしら…?ぶどう酒で服を洗ってもあんまり綺麗になりそうではないですけど…。

「雄じしのようにうずくまり、雌じしのように身を伏せる。」というのは、ユダの治める地が獅子のように強固だということでしょうか。

38章でユダの子や孫について詳しく書いてありましたが、この後も登場するのかしら?


ゼブルンは海べに住み、舟の泊まる港となって、その境はシドンに及ぶであろう。

イッサカルはたくましいろば、彼は羊のおりの間に伏している。彼は定住の地を見て良しとし、その国を見て楽しとした。彼はその肩を下げてにない、奴隷となって追い使われる。

ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。ダンは道のかたわらのへび、道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、乗る者をうしろに落すであろう。主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。

ガドには略奪者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。

アセルはその食物がゆたかで、王の美味をいだすであろう。

ナフタリは放たれた雌じか、彼は美しい子じかを生むであろう。


創世記 49:13-21


この辺、急に預言がサラッとしてますね…。

ダンについてヤコブは「あなたの救いを待ち望む」と言っていますね。罪人に対して示せる愛の形の一つかな、と思います。


ヨセフは実を結ぶ若木、泉のほとりの実を結ぶ若木。その枝は、かきねを越えるであろう。射る者は彼を激しく攻め、彼を射、彼をいたく悩ました。しかし彼の弓はなお強く、彼の腕は素早い。これはヤコブの全能者の手により、イスラエルの岩なる牧者の名により、あなたを助ける父の神により、また上なる天の祝福、下に横たわる淵の祝福、乳ぶさと胎の祝福をもって、あなたを恵まれる全能者による。あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、永久の丘の賜物にまさる。これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。


創世記 49:22-26


ヨセフ、かなり栄そう…!

でも、その栄がヨセフによるものではなく神様によるものであることも言ってますね。

私も傲り高ぶらないようにしたいです。


ベニヤミンはかき裂くおおかみ、朝にその獲物を食らい、夕にその分捕物を分けるであろう」。


創世記 49:27


またサラッとしてる…!

「夕にその分捕物を分けるであろう」というのは獲物を自分だけのものにせず、他人にも分けるということかしら。


すべてこれらはイスラエルの十二の部族である。そしてこれは彼らの父が彼らに語り、彼らを祝福したもので、彼は祝福すべきところに従って、彼らおのおのを祝福した。


創世記 49:28


私はイスラエルの民ではなく日本の民なのでピンと来ないのですが、今もヤコブの子たちの名前が地名に残ってたりするのかしら?


彼はまた彼らに命じて言った、「わたしはわが民に加えられようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。そのほら穴はカナンの地のマムレの東にあるマクペラの畑にあり、アブラハムがヘテびとエフロンから畑と共に買い取り、所有の墓地としたもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られ、イサクと妻リベカもそこに葬られたが、わたしはまたそこにレアを葬った。あの畑とその中にあるほら穴とはヘテの人々から買ったものです」。こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床におさめ、息絶えて、その民に加えられた。


創世記 49:29-36


ヤコブアブラハムやイサクと共に天の国に行ったのかしら。

「その民に加えられた。」という表現、なんか好きです(*'ω'*)


さて、明日で創世記が読み終わります(`・ω・´)

2019年2月13日、14日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

昨日、投稿し忘れていましたね_(:3 」∠)_
47章と48章をまとめて投稿します。

パロはヨセフの兄弟たちに言った、「あなたがたの職業は何か」。彼らはパロに言った、「しもべらは羊を飼う者です。われわれも、われわれの先祖もそうです」。彼らはまたパロに言った、「この国に寄留しようとしてきました。カナンの地はききんが激しく、しもべらの群れのための牧草がないのです。どうかしもべらをゴセンの地に住ませてください」。パロはヨセフに言った、「あなたの父と兄弟たちとがあなたのところにきた。エジプトの地はあなたの前にある。地の最も良い所にあなたの父と兄弟たちとを住ませなさい。ゴセンの地に彼らを住ませなさい。もしあなたが彼らのうちに有能な者があるのを知っているなら、その者にわたしの家畜をつかさどらせなさい」。そこでヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福した。パロはヤコブに言った、「あなたの年はいくつか」。ヤコブはパロに言った、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。ヤコブはパロを祝福し、パロの前を去った。ヨセフはパロの命じたように、父と兄弟たちとのすまいを定め、彼らにエジプトの国で最も良い地、ラメセスの地を所有として与えた。

創世記 47:3-11

ヨセフの兄弟たち、ヨセフが言った通りにパロの前で自分の職業を言ってますね。ヨセフの父と兄弟たちはエジプトの中でも良い土地を得ることができましたね!
ヤコブがパロを二度「祝福」していましたが、これは「パロの繁栄が長く続きますように。」みたいな祈りをパロの前で行ったということでしょうか?

さて、ききんが非常に激しかったので、全地に食物がなく、エジプトの国もカナンの国も、ききんのために衰えた。それでヨセフは人々が買った穀物の代金としてエジプトの国とカナンの国にあった銀をみな集め、その銀をパロの家に納めた。こうしてエジプトの国とカナンの国に銀が尽きたとき、エジプトびとはみなヨセフのもとにきて言った、「食物をください。銀が尽きたからとて、どうしてあなたの前で死んでよいでしょう」。ヨセフは言った、「あなたがたの家畜を出しなさい。銀が尽きたのなら、あなたがたの家畜と引き替えで食物をわたそう」。彼らはヨセフの所へ家畜をひいてきたので、ヨセフは馬と羊の群れと牛の群れ及びろばと引き替えで、食物を彼らにわたした。こうして彼はその年、すべての家畜と引き替えた食物で彼らを養った。やがてその年は暮れ、次の年、人々はまたヨセフの所へきて言った、「わが主には何事も隠しません。われわれの銀は尽き、獣の群れもわが主のものになって、われわれのからだと田地のほかはわが主の前に何も残っていません。われわれはどうして田地と一緒に、あなたの目の前で滅んでよいでしょう。われわれと田地とを食物と引き替えで買ってください。われわれは田地と一緒にパロの奴隷となりましょう。また種をください。そうすればわれわれは生きながらえ、死を免れて、田地も荒れないでしょう」。そこでヨセフはエジプトの田地をみなパロのために買い取った。ききんがエジプトびとに、きびしかったので、めいめいその田畑を売ったからである。こうして地はパロのものとなった。そしてヨセフはエジプトの国境のこの端からかの端まで民を奴隷とした。ただ祭司の田地は買い取らなかった。祭司にはパロの給与があって、パロが与える給与で生活していたので、その田地を売らなかったからである。ヨセフは民に言った、「わたしはきょう、あなたがたとその田地とを買い取って、パロのものとした。あなたがたに種をあげるから地にまきなさい。収穫の時は、その五分の一をパロに納め、五分の四を自分のものとして田畑の種とし、自分と家族の食糧とし、また子供の食糧としなさい」。彼らは言った、「あなたはわれわれの命をお救いくださった。どうかわが主の前に恵みを得させてください。われわれはパロの奴隷になりましょう」。ヨセフはエジプトの田地について、収穫の五分の一をパロに納めることをおきてとしたが、それは今日に及んでいる。ただし祭司の田地だけはパロのものとならなかった。

創世記47:13-26

なんだかピタゴラスイッチのようだ…。しかも、エジプトの民たちは喜んでヨセフの奴隷になっているんだな…。
奴隷は「神様は人を平等に造られた。」という原則から離れた人間の制度ですが、その制度もエジプトの民を救うために神様は利用したのかしら。
あと、「祭司」という言葉が出てきますが、エジプトに居る祭司ということはヤコブやヨセフから見たら異教徒ということですよね。
異教を信仰していたから、祭司たちはヨセフに従わなかったのかしら。

イスラエルは死ぬ時が近づいたので、その子ヨセフを呼んで言った、「もしわたしがあなたの前に恵みを得るなら、どうか手をわたしのももの下に入れて誓い、親切と誠実とをもってわたしを取り扱ってください。どうかわたしをエジプトには葬らないでください。わたしが先祖たちと共に眠るときには、わたしをエジプトから運び出して先祖たちの墓に葬ってください」。ヨセフは言った、「あなたの言われたようにいたします」。

創世記 47:29-30

これらの事の後に、「あなたの父は、いま病気です」とヨセフに告げる者があったので、彼はふたりの子、マナセとエフライムとを連れて行った。時に人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにきました」と言ったので、イスラエルは努めて床の上にすわった。そしてヤコブはヨセフに言った、「先に全能の神がカナンの地ルズでわたしに現れ、わたしを祝福して、言われた、『わたしはおまえに多くの子を得させ、おまえをふやし、おまえを多くの国民としよう。また、この地をおまえの後の子孫に与えて永久の所有とさせる』。エジプトにいるあなたの所にわたしが来る前に、エジプトの国で生れたあなたのふたりの子はいまわたしの子とします。すなわちエフライムとマナセとはルベンとシメオンと同じようにわたしの子とします。ただし彼らの後にあなたに生れた子らはあなたのものとなります。しかし、その嗣業はその兄弟の名で呼ばれるでしょう。わたしがパダンから帰って来る途中ラケルはカナンの地で死に、わたしは悲しんだ。そこはエフラタに行くまでには、なお隔たりがあった。わたしはエフラタ、すなわちベツレヘムへ行く道のかたわらに彼女を葬った」。

創世記 48:1-7

ヤコブの行動、完全にもうすぐ死ぬ人のそれですね…。
ヨセフの母、ラケルが亡くなったのは35章での出来事ですね。ヤコブはエジプトではなく、カナンの地のラケルの墓の近くに葬られたかったのですね。
そして、孫を自分の子にするという謎制度も出てきましたね…。マナセとエフライムに自分の財産を相続させるということ…?

ヨセフは父に言った、「神がここでわたしにくださった子どもです」。父は言った、「彼らをわたしの所に連れてきて、わたしに祝福させてください」。イスラエルの目は老齢のゆえに、かすんで見えなかったが、ヨセフが彼らを父の所に近寄らせたので、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。そしてイスラエルはヨセフに言った、「あなたの顔が見られようとは思わなかったのに、神はあなたの子らをもわたしに見させてくださった」。

創世記 48:9-11

ヤコブはヨセフが悪い獣に食い殺されたと思っていましたからね…。
ヤコブにとって、ヨセフとの再会は本当に願ってもない奇跡だったのかもしれません。

ヨセフはエフライムを右の手に取ってイスラエルの左の手に向かわせ、マナセを左の手に取ってイスラエルの右の手に向かわせ、ふたりを近寄らせた。すると、イスラエルは右の手を伸べて弟エフライムの頭に置き、左の手をマナセの頭に置いた。マナセは長子であるが、ことさらそのように手を置いたのである。そしてヨセフを祝福して言った、「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、生れてからきょうまでわたしを養われた神、すべての災からわたしをあがなわれたみ使よ、この子供たちを祝福してください。またわが名と先祖アブラハムとイサクの名とが、彼らによって唱えられますように、また彼らが地の上にふえひろがりますように」。ヨセフは父が右の手をエフライムの頭に置いているのを見て不満に思い、父の手を取ってエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。そしてヨセフは父に言った、「父よ、そうではありません。こちらが長子です。その頭に右の手を置いてください」。父は拒んで言った、「わかっている。子よ、わたしにはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大いなる者となり、その子孫は多くの国民となるであろう」。

創世記 48:13-19

そういえばヤコブ自身も兄エサウから長子の権利を譲ってもらったんだっけ。(27章)
「先の者が後になり、後の者が先になるだろう。」ということが旧約聖書でも示されているのだなぁ。

2019年2月12日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 


今日読んだ箇所から↓
46章はなぜかヤコブの名称が「ヤコブ」と「イスラエル」と混乱していますね…。

イスラエルはその持ち物をことごとく携えて旅立ち、ベエルシバに行って、父イサクの神に犠牲をささげた。この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた、「ヤコブよ、ヤコブよ」。彼は言った、「ここにいます」。神は言われた、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下るのを恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民にする。わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。そしてヤコブはベエルシバを立った。イスラエルの子らはヤコブを乗せるためにパロの送った車に、父ヤコブと幼な子たちと妻たちを乗せ、またその家畜とカナンの地で得た財産を携え、ヤコブとその子孫は皆ともにエジプトへ行った。

創世記 46:1-6

エジプトに息子ヨセフが居ると分かっても、歳をとってから住み慣れた土地を離れるのはヤコブにとって大きな不安だったのでしょう。
「ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるだろう」というのは、ヨセフがヤコブを看取ってくれるという意味でしょうか。
不安な時は神様が一番の相談相手でありカウンセラーだと思う今日この頃です。

ヤコブと共にエジプトへ行ったすべての者、すなわち彼の身から出た者はヤコブの子らの妻をのぞいて、合わせて六十六人であった。エジプトでヨセフに生れた子がふたりあった。エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。

創世記 46:26-27

8節から25節にかけてはヤコブ(イスラエル)の子と孫が書かれていました。長いので気になる方は各自で読んでください(笑)
ヤコブは大家族ですねぇ!全員一緒にエジプトに移動となると、めちゃくちゃ大変そうですね。

さてヤコブはユダをさきにヨセフにつかわして、ゴセンで会おうと言わせた。そして彼らはゴセンの地へ行った。ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、そのくびを抱き、くびをかかえて久しく泣いた。時に、イスラエルはヨセフに言った、「あなたがなお生きていて、わたしはあなたの顔を見たので今は死んでもよい」。

創世記 46:28-30

ヤコブ〜〜〜!!。・゜・(ノД`)・゜・。

ヨセフは兄弟たちと父の家族とに言った、「わたしは上ってパロに言おう、『カナンの地にいたわたしの兄弟たちと父の家族とがわたしの所へきました。この者らは羊を飼う者、家畜の牧者で、その羊、牛および持ち物をみな携えてきました』。もしパロがあなたがたを召して、『あなたがたの職業は何か』と言われたら、『しもべらは幼い時から、ずっと家畜の牧者です。われわれも、われわれの先祖もそうです』と言いなさい。そうすればあなたがたはゴセンの地に住むことができましょう。羊飼はすべて、エジプトびとの忌む者だからです」。

創世記 46:31-34

ヨセフの言葉に一瞬ギョッとしましたが、そういえば43章でエジプト人がヘブル人であるヨセフの兄弟たちと食事をとるのを嫌う場面がありましたね。
エジプトの中心地に住んでずっと偏見に晒されるよりは、郊外でカナンに居た時のように家畜を飼って暮らす方が良いだろうというヨセフの考えがあるのかしら。

2019年2月11日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日読んだ箇所は感動ものですよ(`・ω・´)

そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、「人は皆ここから出てください」と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」。兄弟たちは答えることができなかった。彼らは驚き恐れたからである。

創世記 45:1-3

ヨセフ〜〜〜!!。・゜・(ノД`)・゜・。
兄弟以外の人を遠ざけたのに、その人たちにも聞こえるほどヨセフは大声で泣いたのですね…。
一日に一章ずつ読むとストーリーの繋がりが分かりにくいですが、ヨセフは自分の正体がバレないように、兄弟への思いを押し殺して接していたのかしら…。
だまし討ちのような方法でベニヤミンを引き取ろうとしたのも兄弟に正体がバレるのを恐れたからかしら…。

ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしに近寄ってください」。彼らが近寄ったので彼は言った、「わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。この二年の間、国中にききんがあったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。

創世記 45:4-8

ヨセフは困難の中でも神様からの使命を感じていたのだな…。
ヨセフはこうして自分に罪を犯した兄弟たちを赦したのだな…。
私もこんな風になれたら…。

飢饉があと五年続くことを知っていたヨセフは父ヤコブも含めて家族全員をエジプトに呼び寄せることにします。
ヨセフは兄弟たちに道中の食料、ヤコブを乗せる車、その他贈り物を持たせて旅立たせます。

彼らはエジプトから上ってカナンの地に入り、父ヤコブのもとへ行って、彼に言った、「ヨセフはなお生きていてエジプト全国のつかさです」。ヤコブは気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったからである。そこで彼らはヨセフが語った言葉を残らず彼に告げた。父ヤコブはヨセフが自分を乗せるために送った車を見て元気づいた。そしてイスラエルは言った、「満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう」。

創世記 45:25-28

ヤコブ〜〜〜!!。・゜・(ノД`)・゜・。