キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

Across The Universe

ジョン・レノンは九日生まれだったので9をラッキーナンバーにしていたという。

ビートルズ時代にも"One After 909"や"Revolution 9"といった9にまつわる楽曲を作っている。

そしてつい最近、私自身にとっても9が特別な数字になった。

 

父が亡くなった。令和3年9月9日のことだった。

父はその日の朝、突然倒れて救急車で運ばれていった。

私も病院に行こうとしたがコロナ禍の人数制限のために入れなかった。

家族が急に飛び出して行って寂しそうにしている新入りの白柴犬と共に留守番をすることになった。

午後4時少し前、白柴犬が何もない空中を少しの間嗅いで、そして昼寝に戻った。

私はそれを見て得体のしれない不安と近しい人と一緒にいるときの安心を同時に感じた。

それから程無くして病院に居る母から電話が来た。

「お父さんのお葬式、日曜日で大丈夫?」とのことだった。

 

母との電話の後、私は父の棚から葬儀で流すCDを探し始めた。

バッハ、ベートーヴェンモーツァルトのような古典からグリーグサン=サーンスストラヴィンスキーのような近現代の作曲家までそろったクラッシック音楽の棚。

父の青春時代によく聞かれていたであろう少し昔の邦楽や洋楽の棚。

もっと父と音楽の話をしたかったと思いながら棚を眺めた。

 

葬儀には父のお気に入りだったらしいバッハのCDを持って行った。

セレモニーの間の待ち時間はほぼずっと母とはらからと父の故郷である鹿児島に行く計画について話していた。

飛行機のこと、ホテルのこと、レンタカーのこと、どこに行くか、何を食べるかなど色々と話した。

私とはらからは小学校低学年の頃に家族で旅行した時に、母はその時と父と結婚した直後に行った時以来足を踏み入れることのなかった鹿児島。

私は幼かったために父の青春の味である白くまアイス桜島フェリーのうどんをうまく食べられなかった。

今だったらそれらを楽しめるのではないかと考えている。

 

私も母もはらからも生け花経験者なので父の棺に花を入れる時の手際がやたらに良かった。

葬儀場のスタッフさんはそれを見て少し引いている様子だった。

一般的には涙を浮かべながらぎこちなく入れる場面だったのに、三人で冷静に連携して素早く棺を飾る様は葬儀のプロからしても不思議な光景だったのだろう。

母は父の背広に先代犬の写真を忍ばせた。

「これであっちで見つけられるね。この犬見ませんでしたかって聞いて回れるし。」と母は言った。

「あ、そんな探偵みたいなノリで入れるの?」と私はいつもの会話のようにツッコミを入れた。

棺に入れられると父の身長の高さがより分かった。昭和生まれの男性としては高い方だったと思う。

肌に化粧が施されていたが眉毛は整えられてなくて、生前のようにぼうぼうと生えていた。

そんな父の姿を見て、何故か悲しみより安心感が勝った。

 

火葬場で父の遺影を持って歩いていたらその場に居合わせた小学校入学前くらいに見える見知らぬ子どもに「おじいちゃん!」と言われた。

思い切り笑った。確かに父は孫が居てもおかしくない年齢だった。

私もはらからも未婚だ。

たくさん苦労をかけたからせめて孫の顔を見せてあげたかった。

恋愛すら恐ろしくてできない私にはもうずっと無理だろうが。

お父さん、ごめん。

 

幼いころからつい最近までの父との思い出が一気に押し寄せてくる。

保育園に通っていたころは休日によく公園に連れて行ってもらった。

高所恐怖症なりにへっぴり腰になりながらアスレチックを楽しんだ。

その頃のものと思われる私とはらからの写真が父のiPod Touchのロック画面に設定されていた。

 

私が小学校に上がったころ、父は医者に進められて散歩を始めた。

一人で歩いていると不審者に間違われてしまうので先代犬を飼い始めた。

先代犬と歩いていても不審者に間違われていた。

 

私にビートルズを教えてくれたのは父だった。

私が中学に上がる直前くらいに持っていたビートルズのCDを出して来てくれた。

不登校時代にはそのCDに随分助けられた。

Here Comes The Sunの弾き歌いを練習していた頃、「懐かしいねぇ。ジョージがエリック・クラプトンと一緒に来日した時に演奏してね。最初のピアノの音で観客も分かって歓声を上げてさぁ。」と話してくれた。

「それはHere Comes The SunじゃなくてWhile My Guiter Gently Weepsじゃない?」と私は応えた。

 

大学に入ってからは一緒にポールの来日ライブに行くようになった。

最初に一緒に行った2014年のライブはポールの急病で中止になってしまった。

父は「チケットの払い戻しがあったからねぇ。」と言ってBBCラジオに出演した際のビートルズの発言集を買ってきた。

めっちゃ分厚い上にデカい本だった。

私はというとポールがもう死んじゃうんじゃないかと本気で心配していた。

そのポールより先に父が死ぬとは思ってもみなかった。

 

ポールはその後無事に復帰してライブ活動を再開した。

私と父は2015年と2017年、2018年の来日ライブに一緒に行った。

一緒に行ったのはお互いに付き添いが必要だったのもある。

それでも父と共にポールに会いに行くのは楽しかった。

父に買ってもらったツアーグッズは今でも大切に使っている。

ライブの後はずっとポールのこととかビートルズのこととかを話していた。

「ライブの終盤にHelter Skelterを歌い出したのはビックリしたね。」とか「Let 'Em Inのブラスバンド良かったね。」とかそんなことを話していたと思う。

ポールの公演ではステージの横のスクリーンに日本語同時通訳が表示されていたが、英語がそこそこできた父は字幕より先にポールのMCに反応していた。

コロナ禍が終わったらまた父とポールの来日ライブに行きたいと思っていた。

父とでなければ、私は誰とポールに会いに行けば良いのだろう?

 

父が亡くなった後、私はAcross The Universeをよく口ずさむようになった。

ある時家族で行ったカラオケボックスで父が私にリクエストした歌だ。

ジョンの歌が私の声質に合ったらしく、父は聞き入ってくれた。

ポール派の私はそれにすこし不満だったが、自分の声に合う歌を見つけられて嬉しかった。

父は今、宇宙のどこかを渡っているのだろうか。

もしそうなら、平安な場所に居てほしい。


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