キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年3月6日、7日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

日付変わりまして一昨日の朝と昨日の朝読んだ箇所から↓

神はこのすべての言葉を語って言われた。
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

出エジプト記 20:1-6

私は付き合いで神社とかお寺に行くことはあるのですが、お参りしたりお守りを買ったりすることはありません。私が信仰する神様に怒られてしまうからです。
ポケモンGOしてる時に神社のポケストップを回す時には、神様と神社の方にちょっと申し訳なさを感じます(笑)

あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

出エジプト記 20:7

英語圏の人ってよく"Oh, my God!"と言いますが、本当はこれも良くないらしいんですよね…。"Oh, no!"がおすすめです。
お祈りする時に大切に御名を唱えるのが良いのかもしれません。

安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

出エジプト記 20:8-11

礼拝にはちゃんと行くようになったけど、安息日にもバイトしちゃってるわ…。半分遊んでるようなバイトだけども…(言い訳)
あ、でもイエス安息日について語る箇所が新約聖書にありました!

すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。

マタイによる福音書 12:10-13

私のバイトも人を助けるようなものだから大丈夫かな!多分!人を助けてお金貰ってるけども!

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

出エジプト記 20:12-17

これらの戒めは新約聖書にも出てきた気がします!
キリスト教って、家族と同じくらい隣人も大切にする宗教な気がします。

民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」。そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。

出エジプト記 20:18-21

神様と本当に対峙すると、この箇所のイスラエルの民のように恐くなって離れたくなるものなのかもしれません。
神様がそうやって恐ろしくあるのは、人を罪から遠ざけるためのことで、恐ろしさは神様の愛から来てるのかもしれません。

あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。

出エジプト記 21:2

おわ、奴隷制が登場!
多分、かつての奴隷貿易が正当化されていたのもこういう聖書箇所が関係しているんだろうなあ。
書いてあることの大体が余り理解できませんでしたが、イスラエルの民における奴隷制は奴隷の権利がある程度保証され、仕えることの対価に金銭が払われることが定められていたようです。借金清算の手段だったのかもしれません。

もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。

出エジプト記 21:7-11

この箇所は日本語で読むと分かりづらいですが、英語で読んだら女奴隷は実質的には側女だったようです。
女奴隷を買ったのにその奴隷が気に入らなかった場合は、主人はお金を渡した上で去らせなければいけなかったみたいです。
男性よりも力が弱い女性が男性の良いように身分を転々としないように、神様は女性を守る戒めを与えたのでしょうね。

人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。しかし、人がたくむことをしないのに、神が彼の手に人をわたされることのある時は、わたしはあなたのために一つの所を定めよう。彼はその所へのがれることができる。しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。

出エジプト記 21:12-16

「人がたくむことをしない〜一つの所を定めよう。」の部分、分かりにくいですが英語版だと「故意でなく人を殺してしまった場合は神が逃れる場所を用意しよう。」みたいなニュアンスになってました。
殺人即ち死刑か…。殺人はそれほど重い罪なんだろうけども…。

もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。

出エジプト記 21:22-25

ハンムラビ法典みたいだ!
そっか、命には命で償うのか…。そしたら殺人即ち死刑になるのかな…。
あ、でも新約聖書でイエスがこの戒めについて言及していましたね。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

マタイによる福音書 5:38-42

旧約聖書新約聖書が矛盾しているようにも読めますが、「自分が罪を犯す時には報いを受けることを覚悟しなさい。自分に罪を犯す人がいたなら、神があなたの罪を赦したようにあなたもその人を赦しなさい。」ということを言っているのかなと思いました。
まぁ、罪を犯すのも犯されるのも避けたいものですが!!

2019年3月4日、5日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

昨日と今朝、読んだ箇所から↓

さて、モーセのしゅうと、ミデアンの祭司エテロは、神がモーセと、み民イスラエルとにされたすべての事、主がイスラエルをエジプトから導き出されたことを聞いた。それでモーセのしゅうと、エテロは、さきに送り返されていたモーセの妻チッポラと、そのふたりの子とを連れてきた。そのひとりの名はゲルショムといった。モーセが、「わたしは外国で寄留者となっている」と言ったからである。ほかのひとりの名はエリエゼルといった。「わたしの父の神はわたしの助けであって、パロのつるぎからわたしを救われた」と言ったからである。


出エジプト記 18:1-4


そういえば、モーセってエジプト人と結婚していたんだっけか…。エジプトを出る前に離婚していたんだな…。
モーセを追いかけて荒野まで来るなんて、お舅さん良い方!


そこでモーセはしゅうとを出迎えて、身をかがめ、彼に口づけして、互に安否を問い、共に天幕にはいった。そしてモーセは、主がイスラエルのために、パロとエジプトびととにされたすべての事、道で出会ったすべての苦しみ、また主が彼らを救われたことを、しゅうとに物語ったので、エテロは主がイスラエルをエジプトびとの手から救い出して、もろもろの恵みを賜わったことを喜んだ。そしてエテロは言った、「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトびとの手と、パロの手から救い出し、民をエジプトびとの手の下から救い出された。今こそわたしは知った。実に彼らはイスラエルびとにむかって高慢にふるまったが、主はあらゆる神々にまさって大いにいますことを」。


出エジプト記 18:7-11


出エジプト記を読む私も、エテロと同じような気持ちです。モーセが記した御言葉を通して神様の偉大さを知る今日この頃です。
エテロは祭司ですから、きっとエジプト神をずっと信仰してきたと思うのです。そんな、いわゆる異邦人にも神様の御業は働くのですね。


あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。モーセはしゅうとに言った、「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間をさばいて、神の定めと判決を知らせるのです」。モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。今わたしの言うことを聞きなさい。わたしはあなたに助言する。どうか神があなたと共にいますように。あなたは民のために神の前にいて、事件を神に述べなさい。あなたは彼らに定めと判決を教え、彼らの歩むべき道と、なすべき事を彼らに知らせなさい。また、すべての民のうちから、有能な人で、神を恐れ、誠実で不義の利を憎む人を選び、それを民の上に立てて、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長としなさい。平素は彼らに民をさばかせ、大事件はすべてあなたの所に持ってこさせ、小事件はすべて彼らにさばかせなさい。こうしてあなたを身軽にし、あなたと共に彼らに、荷を負わせなさい。あなたが、もしこの事を行い、神もまたあなたに命じられるならば、あなたは耐えることができ、この民もまた、みな安んじてその所に帰ることができよう」。


出エジプト記 18:13-23


現代の裁判と同じような制度ができましたね!
エテロはモーセを気遣い、主なる神に祈りつつモーセにアドバイスしているようです。私もこんな風に人にアドバイスできたらな…。
というか、エテロって旧約聖書では稀な思慮深さとハートフルさを兼ね備えた人物ですね!


そんなエテロはモーセにアドバイスをした後、エジプトに戻っていきます。


イスラエルの人々は、エジプトの地を出て後三月目のその日に、シナイの荒野にはいった。すなわち彼らはレピデムを出立してシナイの荒野に入り、荒野に宿営した。イスラエルはその所で山の前に宿営した。
さて、モーセが神のもとに登ると、主は山から彼を呼んで言われた、「このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げなさい、『あなたがたは、わたしがエジプトびとにした事と、あなたがたを鷲の翼に載せてわたしの所にこさせたことを見た。それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。
それでモーセは行って民の長老たちを呼び、主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われたことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。


出エジプト記 19:1-8


「鷲の翼に載せてわたしの所にこさせた。」って、なんか素敵な表現…。
神様の御業を見せられたイスラエル人は、神様との契約を結ぶことでより神様と近しい関係を築くようになるのかしら。


主はモーセに言われた、「見よ、わたしは濃い雲のうちにあって、あなたに臨むであろう。それはわたしがあなたと語るのを民に聞かせて、彼らに長くあなたを信じさせるためである」。モーセは民の言葉を主に告げた。


出エジプト記 19:9


三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。


出エジプト記 19:16-19


自然の力強さを感じさせる箇所ですね…!聖書ってとても古い文章なのに、時折迫力ある表現が使われていますね。
そんな力強い自然を用いて、神様はイスラエル人たちに語りかけていますね。火山も雲も雷も、神様の御手の中にあるんだなぁ。


主はモーセに言われた、「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。モーセは主に言った、「民はシナイ山に登ることはできないでしょう。あなたがわたしたちを戒めて『山のまわりに境を設け、それをきよめよ』と言われたからです」。主は彼に言われた、「行け、下れ。そしてあなたはアロンと共に登ってきなさい。ただし、祭司たちと民とが、押し破って主のところに登ることのないようにしなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。


出エジプト記 19:21-25


神様は強い言葉でモーセイスラエル人たちの所に行くよう告げてますね…。
これから何か恐ろしいことが起きるのかしら…。

2019年3月2日、3日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

昨日と今朝読んだ箇所から↓

イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきたが、その荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。イスラエルの人々は彼らに言った、「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。そのとき主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたがたのために、天からパンを降らせよう。民は出て日々の分を日ごとに集めなければならない。こうして彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。六日目には、彼らが取り入れたものを調理すると、それは日ごとに集めるものの二倍あるであろう」。


出エジプト記 16:1-5


ものすごい奇跡を目の当たりにしても、イスラエルの人々はエジプトでの過酷な日々の方が良かったと思っているのですね…。
そんなイスラエル人のために、神様は天からパンを降らせるそうです。
…天からパン…だと…?


モーセはアロンに言った、「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたは主の前に近づきなさい。主があなたがたのつぶやきを聞かれたからである』と」。それでアロンがイスラエルの人々の全会衆に語ったとき、彼らが荒野の方を望むと、見よ、主の栄光が雲のうちに現れていた。主はモーセに言われた、「わたしはイスラエルの人々のつぶやきを聞いた。彼らに言いなさい、『あなたがたは夕には肉を食べ、朝にはパンに飽き足りるであろう。そうしてわたしがあなたがたの神、主であることを知るであろう』と」。夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。また、朝になると、宿営の周囲に露が降りた。その降りた露がかわくと、荒野の面には、薄いうろこのようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。イスラエルの人々はそれを見て互に言った、「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。主が命じられるのはこうである、『あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとり一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取りなさい』と」。


出エジプト記 16:9-16


うずら…食べられてしもたんかな…?
神様はご自身への感謝の言葉だけでなく、不平不満も聞いてくださるのだなぁ。神様を試みず、神様を頼る人に、神様は応えてくれるのかな。
「主の栄光が雲のうちに現れていた。」って好きな表現だなぁ。
「薄い霜のよう」なパンってどんな味なんだろ?


イスラエルの人々はそのようにして、ある者は多く、ある者は少なく集めた。しかし、オメルでそれを計ってみると、多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった。おのおのその食べるところに従って集めていた。モーセは彼らに言った、「だれも朝までそれを残しておいてはならない」。しかし彼らはモーセに聞き従わないで、ある者は朝までそれを残しておいたが、虫がついて臭くなった。モーセは彼らにむかって怒った。彼らは、おのおのその食べるところに従って、朝ごとにそれを集めたが、日が熱くなるとそれは溶けた。
六日目には、彼らは二倍のパン、すなわちひとりに二オメルを集めた。そこで、会衆の長たちは皆きて、モーセに告げたが、モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」。彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。モーセは言った、「きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう」。ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。


出エジプト記 16:17-27


神様はイスラエル人が飢えもせず飽きもしない量の食糧を過不足なく与えたんだなぁ。
それも、安息日に休めるように6日目には多めに。
私も気づきにくいけれど、こうやって日々の糧を神様に過不足なく与えられているのかしら。


イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。それはコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった。モーセは言った、「主の命じられることはこうである、『それを一オメルあなたがたの子孫のためにたくわえておきなさい。それはわたしが、あなたがたをエジプトの地から導き出した時、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らに見させるためである』と」。


出エジプト記 16:31-32


マナ…美味しそうな描写だ…!
この時のマナは今もどこかに残っているのかしら?


イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。


出エジプト記 17:1-6


今度は水問題ですね…。
イスラエルの民が飢え渇く時、いつも神様は助けてくれますね。


ときにアマレクがきて、イスラエルとレピデムで戦った。モーセヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。


出エジプト記 17:8-13


突然のバトル!荒野にも誰かが攻めてくるものなのですね…。
ヨシュアって誰じゃい!?」と思って今まで読んだ箇所を探してみましたが、ここで初登場の人物のようです。本当に誰じゃい。武将的な人?
モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち」って、不思議ですねぇ。アロンとホルもお疲れ様です(?)
あ、ホルも誰じゃい!?


主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。


出エジプト記 17:14-16


アマレクとの戦いの間、神様もイスラエル人と共に戦っていたのだな。
イスラエル人の戦士を率いたのはヨシュアでしたが、本当にイスラエル軍を率いたのは神様だったと思うのです。

2019年3月1日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日読んだ箇所から↓

そこでモーセイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、「主にむかってわたしは歌おう、彼は輝かしくも勝ちを得られた、彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主はいくさびと、その名は主。彼はパロの戦車とその軍勢とを海に投げ込まれた、そのすぐれた指揮者たちは紅海に沈んだ。大水は彼らをおおい、彼らは石のように淵に下った。主よ、あなたの右の手は力をもって栄光にかがやく、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威光をもって、あなたに立ちむかう者を打ち破られた。あなたが怒りを発せられると、彼らは、わらのように焼きつくされた。あなたの鼻の息によって水は積みかさなり、流れは堤となって立ち、大水は海のもなかに凝り固まった。

出エジプト記 15:1-8

エジプトを出ることができたイスラエル人たちは神様を讃える歌を歌い始めました!
この部分、オリジナルの言語だと韻を踏んでいたりするのかしら?日本語でも、神様の御業がポエティックに描かれていますね。
それにしても、大きな喜びを受けると人って歌い始めるものですよね。私もこれくらい素直な気持ちで歌いてぇです。

敵は言った、『わたしは追い行き、追い着いて、分捕物を分かち取ろう、わたしの欲望を彼らによって満たそう、つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう』。あなたが息を吹かれると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大水の中に沈んだ。主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、ほむべくして恐るべきもの、くすしきわざを行うものであろうか。
あなたが右の手を伸べられると、地は彼らをのんだ。あなたは、あがなわれた民を恵みをもって導き、み力をもって、あなたの聖なるすまいに伴われた。もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民は苦しみに襲われた。エドムの族長らは、おどろき、モアブの首長らは、わななき、カナンの住民は、みな溶け去った。恐れと、おののきとは彼らに臨み、み腕の大いなるゆえに、彼らは石のように黙した、主よ、あなたの民の通りすぎるまで、あなたが買いとられた民の通りすぎるまで。
あなたは彼らを導いて、あなたの嗣業の山に植えられる。主よ、これこそあなたのすまいとして、みずから造られた所、主よ、み手によって建てられた聖所。主は永遠に統べ治められる」。

出エジプト記 15:9-18

歌の続きです↑
そうか、神様はご自分の民を自らの欲望のために攻撃する異邦人から守っていたんだな。この世のもののためではなく神様のために生きることは、困難が付き物ですもんね。
その中で神様を一番大切にする人が、神様から顧みられるのかしら。イスラエル人は神様を大切にしたからこそ神様に守られた安住の地に導かれたのだなぁ。
この箇所に出てくる氏族の名前が気になったので今まで読んだ箇所から探してみたら、ペリシテはノアの息子、ハムから出た氏族みたいです。イサクが住んでいた時に大きな富を築いたしまったもんで隣近所から恨まれてしまい、井戸を埋められちゃったのはペリシテ人の地でした。
エドムはイサクの子でありヤコブに長子の権利を譲った兄のエサウから出た氏族、モアブはソドムとゴモラの災害の後ロトと娘との間に生まれた子、モアブから出た氏族、カナンはノアの孫、カナンから出た氏族みたいです。カナンは酔っ払って裸になった父親を他の兄弟に見せびらかし、父親に「カナンは呪われよ。」なんて言われちゃったあのカナンです。
たまに振り返ると、サイドキャラクターの子孫たちもちゃんと登場しているんですねぇ。全部覚えていられる頭は持っていませんが…。

さて、モーセイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。

出エジプト記 15:22-26

エジプトを出た後も、神様は御業を働かせていますね(*'ω'*)
神様の「定め」と「おきて」と聞くと堅苦しいイメージがありますが、例えば人が子どもに対して「赤信号を渡っちゃダメだよ。」とか「外から帰ったら手洗いうがいをするんだよ。」と言うような、子どもを危険から守るための言葉と同じなのではとふと思いました。
神様が人から遠ざけるべきと考える「危険」は人が天国に行くことができず、魂が永遠に失われることだと思います。
こんなこと書くと、怖いですけどね。

2019年2月28日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日読んだ箇所から↓

民の逃げ去ったことが、エジプトの王に伝えられたので、パロとその家来たちとは、民に対する考えを変えて言った、「われわれはなぜこのようにイスラエルを去らせて、われわれに仕えさせないようにしたのであろう」。それでパロは戦車を整え、みずからその民を率い、また、えり抜きの戦車六百と、エジプトのすべての戦車およびすべての指揮者たちを率いた。主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々のあとを追った。イスラエルの人々は意気揚々と出たのである。エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。


出エジプト記 14:5-9


エジプトの軍隊がイスラエル人に追いついてしまいました!
荒野で死ぬことを恐れるイスラエル人にモーセは語りかけます。


モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。


出エジプト記 14:13-14


モーセの神様への信頼が伺える言葉ですね。
「神様が代わりに戦ってくれる」と信じているからこそ、クリスチャンは悲しみや辛さの中でも希望を捨てずに強くあれるのだと思うのです。


主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。


出エジプト記 14:15-18


モーセの信頼に、神様はちゃんと応えてくれました。
主なる神が唯一の神であることを知ることができたら、イスラエル人以外も救われるのかしら。
さて、いよいよあの場面ですね!(((o(*゚▽゚*)o)))


このとき、イスラエルの部隊の前に行く神の使は移って彼らのうしろに行った。雲の柱も彼らの前から移って彼らのうしろに立ち、エジプトびとの部隊とイスラエルびとの部隊との間にきたので、そこに雲とやみがあり夜もすがら、かれとこれと近づくことなく、夜がすぎた。モーセが手を海の上にさし伸べたので、主は夜もすがら強い東風をもって海を退かせ、海を陸地とされ、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。


出エジプト記 14:19-22


海が!海が!分かれたーー!(謎テンション)
潮の満ち引きではなく、風で水を動かすことで海を割っているのですね。
確か男性だけで60万人居るんだよなぁ…。その集団が割れた海を一気に渡るんだなぁ…。すごいなぁ…。


エジプトびとは追ってきて、パロのすべての馬と戦車と騎兵とは、彼らのあとについて海の中にはいった。暁の更に、主は火と雲の柱のうちからエジプトびとの軍勢を見おろして、エジプトびとの軍勢を乱し、その戦車の輪をきしらせて、進むのに重くされたので、エジプトびとは言った、「われわれはイスラエルを離れて逃げよう。主が彼らのためにエジプトびとと戦う」。


出エジプト記 14:23-25


エジプトの軍隊は当然追ってきましたが、神様の御業によって先に進むのを阻まれています…。
エジプト人の中にも、イスラエル人が神様に守られていることを悟った人がいるようです。


そのとき主はモーセに言われた、「あなたの手を海の上にさし伸べて、水をエジプトびとと、その戦車と騎兵との上に流れ返らせなさい」。モーセが手を海の上にさし伸べると、夜明けになって海はいつもの流れに返り、エジプトびとはこれにむかって逃げたが、主はエジプトびとを海の中に投げ込まれた。水は流れ返り、イスラエルのあとを追って海にはいった戦車と騎兵およびパロのすべての軍勢をおおい、ひとりも残らなかった。しかし、イスラエルの人々は海の中のかわいた地を行ったが、水は彼らの右と左に、かきとなった。このように、主はこの日イスラエルをエジプトびとの手から救われた。イスラエルはエジプトびとが海べに死んでいるのを見た。イスラエルはまた、主がエジプトびとに行われた大いなるみわざを見た。それで民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた。


出エジプト記 14:26-31


エジプト人は全て海に飲み込まれてしまいました…。神様の大きな御業を目の当たりにした彼らは、死後の裁きで天国に行けるのかしら?


今日の箇所は有名な場面が登場したのでワクワクしながら読みました!
エジプトを出るまでが中々長かったですが、多分カナンの地に行くまでも長いんでしょうねぇ…。

2019年2月26日、27日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

昨日、投稿し忘れたので、昨日と今日読んだ箇所から↓


モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます」。彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。


出エジプト記 11:4-8


夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。


出エジプト記 12:29-32


パロは自分の子どもを失ってようやく主なる神に対して心を頑なにするのをやめたようです。

本当に恐るべき存在を知らないと、自分の大切な人さえ失ってしまうんだな…。

あと、この期に及んで「わたしを祝福しなさい。」とか言っちゃうんだな、パロは。


こうしてエジプトびとは民をせき立てて、すみやかに国を去らせようとした。彼らは「われわれはみな死ぬ」と思ったからである。民はまだパン種を入れない練り粉を、こばちのまま着物に包んで肩に負った。そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。また多くの入り混じった群衆および羊、牛など非常に多くの家畜も彼らと共に上った。そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。


出エジプト記 12:33-40


創世記でアブラハムが神様に言われたことが成就しましたね!↓


時に主はアブラムに言われた、「あなたはよく心にとめておきなさい。あなたの子孫は他の国に旅びととなって、その人々に仕え、その人々は彼らを四百年の間、悩ますでしょう。しかし、わたしは彼らが仕えたその国民をさばきます。その後かれらは多くの財産を携えて出て来るでしょう。あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう。四代目になって彼らはここに帰って来るでしょう。アモリびとの悪がまだ満ちないからです」。


創世記 15:13-16


アブラハムの子孫は財産はエジプト人から奪うことができたのに、食料は十分持っていくことができなかったんだな…。

男性だけでも60万人だから、相当大きな集団だなぁ…。大丈夫なのかな。


神は紅海に沿う荒野の道に、民を回らされた。イスラエルの人々は武装してエジプトの国を出て、上った。そのときモーセはヨセフの遺骸を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みられるであろう。そのとき、あなたがたは、わたしの遺骸を携えて、ここから上って行かなければならない」と言って、イスラエルの人々に固く誓わせたからである。


出エジプト記 13:18-19


紅海に向かうということは、次の章辺りであの有名な場面が登場しそうですね(*゚∀゚*)

ヨセフ、亡くなってから長い年月が経ってしまいましたが、ちゃんと故郷に葬ってもらえそうですね。


主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった。


出エジプト記 13:21-22


雲の柱に火の柱…。なんだか素敵な表現!

個人的な話ですが、私は今年就職先を探さなければいけないので、この場面の神様のような力強い導きを求めたいです。

2019年2月25日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

先に言っておきますが、今日読んだ箇所でもイスラエル人はエジプトを出て行けてません( ̄▽ ̄)


モーセとアロンはパロのもとに行って彼に言った、「ヘブルびとの神、主はこう仰せられる、『いつまで、あなたは、わたしに屈伏することを拒むのですか。民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし、わたしの民を去らせることを拒むならば、見よ、あす、わたしはいなごを、あなたの領土にはいらせるであろう。それは地のおもてをおおい、人が地を見ることもできないほどになるであろう。そして雹を免れて、残されているものを食い尽し、野にはえているあなたがたの木をみな食い尽すであろう。またそれはあなたの家とあなたのすべての家来の家、および、すべてのエジプトびとの家に満ちるであろう。このようなことは、あなたの父たちも、また、祖父たちも、彼らが地上にあった日から今日に至るまで、かつて見たことのないものである』と」。そして彼は身をめぐらして、パロのもとを出て行った。パロの家来たちは王に言った、「いつまで、この人はわれわれのわなとなるのでしょう。この人々を去らせ、彼らの神なる主に仕えさせては、どうでしょう。エジプトが滅びてしまうことに、まだ気づかれないのですか」。


出エジプト記 10:3-7


今度はイナゴですよ…。雹を生き残った作物もイナゴが食い尽くしてしまったらエジプトの人々の食糧がなくなってしまいますよ…。

家来たちも神様の恐ろしさに気づいているのに、パロの心は相変わらず頑なです…。


そこで、モーセとアロンは、また、パロのもとに召し出された。パロは彼らに言った、「行って、あなたがたの神、主に仕えなさい。しかし、行くものはだれだれか」。モーセは言った、「わたしたちは幼い者も、老いた者も行きます。むすこも娘も携え、羊も牛も連れて行きます。わたしたちは主の祭を執り行わなければならないのですから」。パロは彼らに言った、「万一、わたしが、あなたがたに子供を連れてまで去らせるようなことがあれば、主があなたがたと共にいますがよい。あなたがたは悪いたくらみをしている。それはいけない。あなたがたは男だけ行って主に仕えるがよい。それが、あなたがたの要求であった」。彼らは、ついにパロの前から追い出された。主はモーセに言われた、「あなたの手をエジプトの地の上にさし伸べて、エジプトの地にいなごをのぼらせ、地のすべての青物、すなわち、雹が打ち残したものを、ことごとく食べさせなさい」。そこでモーセはエジプトの地の上に、つえをさし伸べたので、主は終日、終夜、東風を地に吹かせられた。朝となって、東風は、いなごを運んできた。


出エジプト記 10:8-13


パロ、ちょっと譲歩したかなと思ったら、やっぱり神様はイスラエル人全員をエジプトから出さないと許さないようです。

そんなにパロは奴隷要員としてのイスラエル人を失うのが惜しいのか…。


そこで、パロは、急いでモーセとアロンを召して言った、「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」。そこで彼はパロのところから出て、主に祈願したので、主は、はなはだ強い西風に変らせ、いなごを吹き上げて、これを紅海に追いやられたので、エジプト全土には一つのいなごも残らなかった。しかし、主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々を去らせなかった。


出エジプト記 10:16-20


パロは赦しを乞い、それが神様から認められたようですが、神様はまたパロの心を頑なにしてしまいました…。

こうしている間にもイスラエル人たちは奴隷として酷使されているのですよね…。


主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。


出エジプト記 10:21-23


よくもまあ次々と新しい不思議現象を起こすものである…。

三日間何も見えず、何もできないって、恐ろしいですね…。


そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。しかし、モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。けれども、主がパロの心をかたくなにされたので、パロは彼らを去らせようとしなかった。それでパロはモーセに言った、「わたしの所から去りなさい。心して、わたしの顔は二度と見てはならない。わたしの顔を見る日には、あなたの命はないであろう」。モーセは言った、「よくぞ仰せられました。わたしは、二度と、あなたの顔を見ないでしょう」。


出エジプト記 10:24-29


パロ、またちょっと譲歩しましたがやっぱり心を頑なにされてしまいました…。

モーセが「よくぞ仰せられました。わたしは、二度と、あなたの顔を見ないでしょう。」と言っていましたがどういうことでしょう…?