うちの犬のこと
紅茶のこと
経験則から昔のことを思い出す時は精神的に弱っている時だなぁと考えつつ、初めて紅茶を飲み始めたころのことを書きます。
中学生の頃、いじめに遭いました。
それが元で学校に行きづらくなり、引きこもりになりました。
あの頃のいじめが逃げなければいけないほどひどいものだったのかはもう思い出せないし思い出したくもないのですが、先日成人式に行って中学の同級生を見た時、「こんな奴らがいた学校なんて通わなくて正解だったな」と思えたのでぼんやりと解決しました。
ただ、当時の自分はそんな風に考えられないので日の当たる外とは対照的な暗い部屋でうずくまって暮らしていました。
「こんな自分消えちゃえばいいのになぁ」
「死んだ瞬間落ち葉が土に還るように体が溶けるのなら今すぐ死ぬのになぁ」
闇のように黒々とした思いが頭の中でとぐろを巻いていました。
そんな状態でも家族は今までと変わらず私と食卓を囲んでくれました。
幸せだった小学生時代と同じように和やかな食事に私はとても癒されていました。
そして、学校に行かなくなったことで私は「三時のお茶」という今まで経験のない食卓を母と過ごすようになりました。
紅茶を飲むようになったのはその頃からです。
最初はカフェインの香りが苦手で、ジャムや牛乳を入れごまかし飲んでいました。
なぜ苦手な紅茶をわざわざ飲もうとしたのかというと、当時はまり始めていたビートルズのお国の慣習、ティータイムを真似したかったのかもしれません(笑)
ある日母が買ってきたアプリコットのジャムを紅茶に入れて飲むと、紅茶ならではの香りを楽しんで飲めるようになりました。
そして、飲み終わったカップのそこに残った少し紅茶の香りが移ったアプリコットの果肉を食べるのが大好きでした。
お茶の時間が終わると母は家の仕事に戻り、私はまたうずくまって暗闇の中で過ごしました。
それが世界から取り残された中学生の私に与えられた癒しでした。
今でも紅茶を飲むと、暗闇の中で見た三時の陽だまりを思い出します。
ああそういえば最近アプリコットジャム入れた紅茶、飲んでないなぁ…。
琴奨菊関優勝めでたい!!
私の言葉が本人に届くか分かりませんが…
めでたいですね~♪3人の横綱に勝利しての優勝!
優勝インタビューでの緊張がほぐれた朗らかな笑みを見てこちらも笑顔になっちゃいました(*´ω`*)
佐渡ヶ嶽部屋の力士が優勝するのは2008年5月場所の琴欧洲以来だそうな。
個人的な話ですが、この琴欧洲さん、今の鳴門親方は私が相撲に興味を持つ一番最初のきっかけでした。
琴欧洲さんを知ったのは私が何かと多感な中学生の時でした。
映画俳優にいてもおかしくないような整ったルックスの男性がまわしを締めて豪快に相撲をとる姿に釘つけになったものです(`・ω・´)(「面食いかよ!」と突っ込まれても何も言い返せません(^^;))
それからどういうめぐり合わせか父が友達に誘われていやいや琴欧洲さんのファンクラブに入り、そしていやいや連れられて参加したファンクラブイベントで琴欧洲さんの人柄に魅了され(笑)、以来引退まで家族ぐるみで応援してました。
本当にね、鳴門親方の人柄は素晴らしいです。かわいいと評判のブログを見るだけで分かります↓
琴欧洲オフィシャルブログ|『ちゃんこ鍋とヨーグルトって意外と合うんです』|武道・格闘技|相撲|相撲
その優しい人柄が逆に引退直前の相撲に悪い影響を与えていたような気もします。引退会見で涙を流しながら「日本に来て、おすもうさんになれて良かった」と話す彼を見て「このやわらかくて温かな心では土俵で相撲を取り続けることのプレッシャーを受け止めきれなかったのかもしれないな」と一緒に涙を流しそうになりました。
にわか相撲ファンの中でもにわかな私が言うことですから的外れも甚だしいでしょうけれど…
琴奨菊関もテレビでお姿を拝見する限りとっても優しくて温かな人柄だということが分かります。「10年ぶりの日本出身力士優勝」なんて騒がれてますから、彼も鳴門親方がかつてそうだったようにプレッシャーを受け続けながら相撲を取らなければいけないのでしょうね…
琴奨菊関が今場所で見せてくれた勢いのあるがぶり寄りをこれからも長く見せてくれることを祈っています(・ω・)ノ
明けまして今直面している問題
明けましておめでとうございます。
新しい年もマイペースにブログを更新していきます。
さてさて、はてなハイクでもチラッと言いましたが私は昨年キリスト教に入信しました。
丁度前回の自意識過剰な記事を書いた直前です(`・ω・´)
(あの記事のその後はもう少し経ってから書かせてください(^^;))
クリスチャンになってから初めてのお正月を迎えたのですが早速信仰上の悩みにぶつかりました。
初詣行くべきか行かざるべきか問題です。
ご存じのようにキリスト教は一神教です。主なる神様以外の神様を拝んだら怒られます。神様めっちゃ怒ります。
そして神社が祀っているのはキリスト教でいう神様ではないのは明らかです。
私はイエス様を救い主だと思っていますし、信じていれば天国にばっちり行けるだろうと思っています。そして、そんな恵みを与えてくれた神様に喜ばれないこともしたくありません。
でもですね、今まで自分が親しんできた八百万の神様も捨てがたいのです。
「おめー全然クリスチャンじゃないじゃん!」って声が聞こえてきそうです…
でも、もう少しお付き合いくださいませませ…
そもそも、聖書にある神様と神道の神様ってなにか性質が違うような気がするんです。
はっきりした根拠がある訳でもないし、私は聖書についてまだ学んでいる最中なので偉い方から見たらとんちんかんな考えかもしれませんが勢いで書いちゃいます。
聖書にある神様ってこの世界を創造されて*1、この世のすべてを治めている方*2ですよね。
でも、神道の神様はモノやコトや土地に宿っているもので、まるで聖書にある『聖霊』みたいだなって思うのです。
聖霊って、よく分からない存在なんですよね~。三位一体を成す一つなのに主なる神やイエス様に比べてあんまり聖書に書かれてない…
ただ、どうやら聖霊はどこにでもいらっしゃって*3神様の御業を行う存在*4なんだってことは分かるのです。
そして、神様には感情がある。人間が罪を犯したり神様に背くようなことをすれば普通にお怒りになるし*5、ある人が救い主を受け入れて救われればそれはそれは喜ばれます。*6
なんだか怒ると暴れて、祀ってあげると静まる日本の土地土地に宿る神様と共通しているところがあるなぁって…(笑)
ああ、自分で書いていても半分くらい分からないです(;´∀`)とりあえず聖書と神道の神様の関係は身近なクリスチャンの先輩に訊いてみることにします。
私個人的な意見としては、キリスト教も神道も、それからその他の宗教も、視点の違いではないのかなと感じています。
ある騙し絵を見て壺と見るか向き合う二つの顔と見るかみたいな…
どの視点も正しくて、間違ってはいないんですよね。
だから私は普段は祈りによって神様とつながって、時々神社にお参りしてその土地の神様にご挨拶したいなって考えてます。
それが本当に神様が喜ばれるやり方なのかは分かりませんけどね(^^;)
この文章もしばらく経ったら自分でも恥ずかしくなるのでしょうが、私の信仰生活の軌跡としてネット上に残しておきます。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
ではでは、キンモクセイでした。
※クリスチャンでない方にはよく分からない部分があるかもしれませんが、しばらくしたら私に出来る範囲で聖書の対応個所をつけますね。少々お待ちください…。→1月24日追記:脚注を付けてみました。聖句が適当であるか自信がありませんが…(;´∀`)
*1:創世記第一章一節「はじめに神は天と地を創造された。」ここから神様は一週間かけてどんどん世界を作っていきます。
*2:マタイによる福音書第28章18~20節「イエスは彼らに近づいてきて言われた、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなた方は行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。』」
*3:詩篇139章7節わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
*4:ヨハネの第一の手紙第四章13節「神が御霊をわたしたちに賜ったことによって、わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る。」
*5:ホセア書第四章一節「イスラエルの人々よ、主の言葉を聞け。主はこの地に住む者と争われる。この地には真実がなく、愛情がなく、また神を知ることもないからである。」神様から離れて堕落した人間に対しては基本プンプンな神様です。
*6:マタイによる福音書第18章12~13節「あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。」
妹の幼馴染
妹には赤ん坊のころから仲良くしている友達がいます。
ご近所に住んでいるので彼女のお家とは家族ぐるみでお付き合いしてます。
そんな彼女、小学生くらいの頃まではお兄さんがいることもあってかなりボーイッシュな子でした。
幼い頃の私は「一緒にトイレに入れば男の子か女の子か確かめられる…!」と思い詰めていました。
それくらい性別不詳な子でした。
妹と彼女と彼女のお兄さんと私はお互いの家をよく行き来して遊んでいました。
そうしているうちに妹も彼女につられて一人称が「俺」になったりとボーイッシュになりました。
彼女が中学生になったころ、そのボーイッシュさが影を潜めていきました。
一方、妹はボーイッシュな道を突き進んでいきました。
二人のその傾向が強くなってくに連れて二人はつるまなくなったようでした。
我が家にも遊びに来なくなったので彼女がどうしているのか、どのように成長しているのかも分からなくなりました。
つい先日のこと、そんな彼女が我が家の前に現れました。
修学旅行のお土産を妹に渡すためだったそうです。
私は犬の散歩から帰ってきた時に丁度その現場に出くわしたのですが、驚きました。
後ろから見た彼女は妹にそっくりでした。
髪型や眼鏡が近かったのもあったのですが、佇まいや話し方も妹を思わせました。
別々の学校に行き、趣味も違っている二人でも、幼い日々を共に過ごしたから同じ根っこを持っているのでしょうか?
何が言いたかったかというと、私の記憶とそれほど彼女が変わってなくて嬉しかったということです。
妹と彼女の友情が永遠に続くことを…