キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年2月17-19日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

一昨日から出エジプト記読み始めていたのに投稿してなかったですね…。
一昨日読んだ箇所から今朝読んだ箇所にかけてまとめて投稿します↓


そして、ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。


出エジプト記 1:6-11


神様が言っていたように、イスラエルの子孫たちは繁栄したようですね!
しかし、エジプトではヨセフが飢饉からエジプトの民を救ったことが忘れ去られてしまったようです…。
いつの時代も、どこの国でも、マイノリティーはあらぬ誤解を受けて迫害されてしまうのですね…。


またエジプトの王は、ヘブルの女のために取上げをする助産婦でひとりは名をシフラといい、他のひとりは名をプアという者にさとして、言った、「ヘブルの女のために助産をするとき、産み台の上を見て、もし男の子ならばそれを殺し、女の子ならば生かしておきなさい」。しかし助産婦たちは神をおそれ、エジプトの王が彼らに命じたようにはせず、男の子を生かしておいた。エジプトの王は助産婦たちを召して言った、「あなたがたはなぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか」。助産婦たちはパロに言った、「ヘブルの女はエジプトの女とは違い、彼女たちは健やかで助産婦が行く前に産んでしまいます」。


出エジプト記 1:15-19


助産婦たちのパロへの返しが、なんかスカッとしますね!
神様が王の王であることを知っていたから、助産婦たちはエジプトの王の命令ではなく神様の御心に従ったのだなぁ。


さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。その姉は、彼がどうされるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。


出エジプト記 2:1-10


モーセ登場!!
モーセはヘブル人でなくエジプト人の家で育ったのだなぁ…。良い人に拾われて良かった…。
名前の由来の「水の中から引き出した」も後の展開に繋がりそうですね!


モーセが成長して後、ある日のこと、同胞の所に出て行って、そのはげしい労役を見た。彼はひとりのエジプトびとが、同胞のひとりであるヘブルびとを打つのを見たので、左右を見まわし、人のいないのを見て、そのエジプトびとを打ち殺し、これを砂の中に隠した。次の日また出て行って、ふたりのヘブルびとが互に争っているのを見、悪い方の男に言った、「あなたはなぜ、あなたの友を打つのですか」。彼は言った、「だれがあなたを立てて、われわれのつかさ、また裁判人としたのですか。エジプトびとを殺したように、あなたはわたしを殺そうと思うのですか」。モーセは恐れた。そしてあの事がきっと知れたのだと思った。


出エジプト記 2:11-14


仲間を救おうとやったことでもやり方が行き過ぎていると、同じ仲間からも信頼を得られなくなってしまうのですね…。
もしかしたら、エジプト人の家で育てられたモーセはヘブル人たちからはエジプト人側の人間だと思われていたのかしら…?


この後モーセはミデヤンの地に逃れ、そこの祭司の娘を妻とします。


モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていたが、その群れを荒野の奥に導いて、神の山ホレブにきた。ときに主の使は、しばの中の炎のうちに彼に現れた。彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。モーセは言った、「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。主は彼がきて見定めようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。


出エジプト記 3:1-6


いよいよ神様がモーセの前に現れましたね(`・ω・´)
神様とすぐ分かるような、不思議な登場の仕方ですね。


主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。


出エジプト記 3:7-10


いよいよ「出エジプト」が始まりますね(`・ω・´)
神様はイスラエル人の苦しみや声にならない心の叫びも聞いていらしたんだなぁ。
ところでモーセがパロの元に行くとエジプト人を殺したことで咎を受けそうですが、大丈夫なのかしら…?


モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。


出エジプト記 3:13-15


神様がどういう方なのかを説明するのによく引用される箇所なのですが、よく分からないですね!!\(^o^)/
ちなみに英語版では「わたしは有って有るもの」というところが"I AM WHO I AM"となっていました。
神様という存在は過去から未来にかけて、どんな場所であろうと確固たる存在だ、という感じが伝わってくる気がします。