キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

「不必要」って何?

ブログではお久しぶりです。

毎朝、聖書を読み続けてはいるのですが、ブログには書かずにいる現状です。

ちなみに今は『エズラ記』を読んでいます。

少しずつ読み進めているのでいつかまたデボーションを投稿したいです。

 

さて、デボーション投稿をほったらかして何を書きたいのかといいますと、現在裁判が行われているとある事件についてです。

その事件では19人の命が一夜にして奪われました。

被告はその19人、重度障碍者たちについて「社会に必要ない」「不幸しか生まない」と言いました。

この狂った考えがこの人だけのものであればまだ良かった。

事件の後、被告の考えに共感する人が少なからずいることも明らかになりました。

 

はてなハイクの最後の日に明かしたように、私はサークルやアルバイトで「障碍者」と呼ばれる人たちと関わっています。

この事件の第一報を聞いて最初に感じたのは、多くの命が失われたことに対する胸が裂けそうなほどの悲しみでした。

事件の概要が明らかになるにつれ頭を占めたのは「自分が知っている人たちに直接大きな憎しみを向けられるかもしれない」という恐れでした。

実際に「重度障碍者だから」という理由で19人もの命を奪った人が居たのですから、私の不安は的外れなものではないはずです。

 

裁判に関するニュースや記事を見るたび、重いものが頭の上からのしかかるように苦しいです。

被告の言葉一つ一つに恐怖感を覚えます。

被告の言葉は確実に、私がサークルやアルバイトで関わる人たちに向けられています。

ただ、恐怖感の原因はそれだけでない気もしています。

 

私は大学に入るまでいわゆる「障碍者」とはほとんど関わりがありませんでした。

彼らがどのように暮らし、何を楽しみにして、何を考えて生きているのか、何も知りませんでした。

私がもし今所属しているサークルやアルバイトに出会っていなかったら、被告と同じように「障碍者は社会に必要だろうか?」と考えていたかもしれません。

そのような考えを恥ずかしげもなく披露していたかもしれません。

そんな有り得たかもしれない自分の姿が恐ろしいのです。

 

もう一つ恐ろしいのは、人間を「必要」「不必要」の二種類に分類しようとする社会の流れです。

私自身が「社会」から「不必要」とされることに恐れています。

そもそも「社会に必要」「社会に不必要」とは何なんでしょうか?

人が作ったものは全て、いずれ朽ちてこの世から失われるのに。

お金など普遍的価値があるように見えるものも、すこし情勢が変われば無価値になるのに。

「社会に必要」「社会に不必要」という物差しが如何に愚かであるか、被告にはわからないのでしょうか?

「社会に不必要」とレッテルを貼られた人たちの悲しみが分からないのでしょうか?

 

裁判では被害者家族たちの悲痛な心境も明らかになっています。

ただ、いくら感情をこめて被害者家族が言葉を紡いでも、被告には届いていないようです。

障碍者は社会に不必要」という自らの考えを固持しているようです。

 

この事件は被告に死刑を言い渡した時点で終わらせてはいけない気がします。

人が他人を選別することの愚かさ、残酷さを被告に思い知らせなければなりません。

誰もが「社会に必要」か「社会に不必要」か判断されるべきではないことを世の中に広めなければなりません。

 

辛くなってきたので楽しいことを書きます。

 

被告は「重度障碍者はコミュニケーションができない」なんて言っていましたが、私は全く反対します。

コミュニケーションはよくキャッチボールに例えられますが、「障碍者」とのコミュニケーションはこちらのボールを受け取ってもらえなかったり、向こうから一方的にボールを投げつけられたりする時もあります。

そもそもボールを投げてこない人、ボールを投げたか分かりにくい人もいます。

そんなキャッチボールでも、私は楽しんでいます。

ボールをどうにか受け取ってうまく投げ返せたときの喜び、

ボールを投げ返せなくても互いに笑いあった時間、

月並みな表現ですが、それらは私にとって尊い宝物です。

一緒にボールを投げあった彼らの一人一人が、私にとって大切な存在です。

 

彼らは大切なことを私に教えてくれます。

私には些細なことに見えるものに対しても、彼らは大きく感情を動かします。

彼らの価値観は多種多様で、それぞれユニークなスコープを持っているようです。

そんな彼らと関わる中で、私も自分のスコープを大事にするようになりました。

自分自身も価値ある存在なんだと気づくようになりました。

 

一方で彼らの自由な価値観を脅かす「社会通念」のようなものにも気づくようになりました。

その一つが被告の言う「重度障碍者は社会に不必要」というものです。

 

私は被告を赦せません。

その人は19人の命を独善的な理由で奪いました。

19人の人生や人格を全否定しました。

その独善的な考えを世の中に広めました。

勝手に「社会に不必要」と判断される恐怖を多くの人に与えました。

私は被告を赦せません。

 

裁判の中で正しい判断が行われますように。

被害者の家族が伝えたいことを全て被告に伝えられますように。

被告の独善的な考えが改められますように。

19人の魂が安らかな場所にありますように。

アーメン。

 

ではでは、また気が向いた時にブログを書きます。

さいなら。

ポールが今日も元気でめでたい

お久しぶりです。

学業やらサークルやら就活やら資格取得やらで忙しくしていて随分ブログをご無沙汰していました…。

ブログには書いていませんが聖書はちゃんと読み進めていて、今は申命記を読んでおります。

 

さて、一昨日はポール・マッカートニーの誕生日でございました!

なんと77歳!喜寿!喜ばしい!めでたい!ハッピー!!イエー!!

2日経ちましたがまだ喜びが心の中を満たしております♪

一昨日はサークル会議があったのですが、部屋に入った瞬間"Got To Get You Into My Life"を歌いながらくるくる回ってしまい、メンバー達にドン引きされました(笑)

 

こんなに私が喜んでいるのは大好きな人の誕生日だからだけではありません。

丁度私が大学に入学した年、ポールが日本に来てくれました。

私はもちろんチケットを買い、父と一緒に国立競技場に向かいました。

しかし私達が観るはずだった公演の前日にポールは体調を崩し、日本で予定していた全ての公演、そしてその後の韓国での公演もキャンセルになってしまいました。

私は落胆しました。

そして、ポールのことがとても心配になりました。

このままポールが死んでしまうんじゃないか、と不安に襲われました。

私はその当時まだクリスチャンではありませんでしたがキリスト教には出会っていたので、半年間ポールのために祈り続けました。

祈りは聞かれてポールの体調は回復し、翌年また日本に来てくれました。

ポールはそれからずっと元気に歌を歌い続けてくれています。

そして一昨日、めでたく喜寿を迎えました。

こんなに嬉しいことはないです!!!

 

荒んでいた中学時代から今まで、私の人生の中にポールが居てくれて、本当に幸せです。

それではお聴きください、the Beatlesの"Got To Get You Into My Life"!!

 

www.youtube.com

 

Soooooo Happy Birthday, Sir James Paul McCartney!!!

2019年3月27日〜29日デボーション

はてなハイクが終わってしまって、気が抜けていました…。

一昨日、昨日、今朝読んだ箇所を引用しつつ紹介します。

 

主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。

レビ記 1:1-4

 

レビ記はこんな感じで捧げものの仕方について書かれているみたいです。

この燔祭は時に神様の恵みを感謝し、賛美し、罪を贖ったり、願い事をするために行われていたようです。

「なんで牛を丸々一頭…」と思わなくもないですが、そもそもその牛も神様から与えられた恵みなんですよね。

たくさんもらった恵みの一部を感謝して返す、と考えたら自然な行為のような気もします。私は。

 

彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。

レビ記 1:5-9

 

屠る…血…内臓…。うむむ、なんかグロい…。

モーセたちが生きていた時代は、こうやって死が身近だったんだなぁ…。

 

人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。

レビ記 2:1-3

 

素祭は神様に感謝して、燔祭の供え物と共に麦粉と油を混ぜたものを神様に捧げたことを言うそうです。

残ったものは祭司が食べられるのですねぇ。美味しそう…。

 

もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。彼はその供え物の頭に手を置き、会見の幕屋の入口で、これをほふらなければならない。そしてアロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたその酬恩祭の犠牲のうちから火祭を主にささげなければならない。すなわち内臓をおおう脂肪と、内臓の上のすべての脂肪、二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共にとられる肝臓の上の小葉である。

レビ記 3:1-4

 

今度は「酬恩祭」ですね!神様の恵みに感謝し、神様との関係を確かにするために行われたそうです。

ここでも血を注いだり、内臓を乗り出さないといけないのですね…。

 

祭司はこれを祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭としてささげる食物であって、香ばしいかおりである。脂肪はみな主に帰すべきものである。あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが、すべてその住む所で、代々守るべき永久の定めである』」。

レビ記 3:16-17

 

あ、酬恩祭の捧げ物は食べられないのね…。いや、脂肪と血は食べてはいけないだけでお肉はいいのかしら?

あと、繰り返される「主に捧げる香ばしい香り」という表現が好きです。

私も香ばしい香りを放ちたいですねぇ…(火で焼かれたい訳ではないですよ)。

 

主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『もし人があやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。すなわち、油注がれた祭司が罪を犯して、とがを民に及ぼすならば、彼はその犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない。

レビ記 4:1-3

 

今度は罪祭ですね。罪を贖うために家畜を捧げることのようです。

祭司は牛一頭、イスラエルの会衆全体の場合も牛一頭、支配者の場合は雄ヤギ一頭、一般の人の場合は雌ヤギ一頭を捧げなければならなかったようです。

ではでは、どんな罪を犯したら罪祭を行わなければならないのでしょうか?

 

もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。また、もし人が汚れた野獣の死体、汚れた家畜の死体、汚れた這うものの死体など、すべて汚れたものに触れるならば、そのことに気づかなくても、彼は汚れたものとなって、とがを得る。また、もし彼が人の汚れに触れるならば、その人の汚れが、どのような汚れであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、とがを得る。また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。

レビ記 5:1-4

 

あー、罪犯してるなぁー。雌ヤギ捧げなきゃだわー。 

特に偽証の罪は犯してしまっている気がします…。世間体を気にしてとは言え、友人について本当は思ってないことを言ってしまうこともあって…私は罪深いです…。

 

「もし人が不正をなし、あやまって主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルに当る雄羊の全きものを、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。また人がもし罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをしたときは、たといそれを知らなくても、彼は罪を得、そのとがを負わなければならない。彼はあなたの値積りにしたがって、雄羊の全きものを群れのうちから取り、愆祭としてこれを祭司のもとに携えてこなければならない。こうして、祭司が彼のために、すなわち彼が知らないで、しかもあやまって犯した過失のために、あがないをするならば、彼はゆるされるであろう。

レビ記 5:15-18

 

罪を贖う捧げ物にはもう一つのパターンがあるみたいですね。

「彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。」とありますが、この究極のものがイエスが十字架にかかったことなんですよね…。

 

参考文献↓

https://blogs.yahoo.co.jp/sabia59_62/51574218.html

2019年3月26日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

主はモーセに言われた。「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。そして、その中にあかしの箱を置き、垂幕で、箱を隔て隠し、また、机を携え入れ、それに並べるものを並べ、燭台を携え入れて、そのともしびをともさなければならない。あなたはまた金の香の祭壇を、あかしの箱の前にすえ、とばりを幕屋の入口にかけなければならない。
また燔祭の祭壇を会見の天幕なる幕屋の入口の前にすえ、洗盤を会見の天幕と祭壇との間にすえて、これに水を入れなければならない。また周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけなければならない。そして注ぎ油をとって、幕屋とその中のすべてのものに注ぎ、それとそのもろもろの器とを聖別しなければならない、こうして、それは聖となるであろう。あなたはまた燔祭の祭壇と、そのすべての器に油を注いで、その祭壇を聖別しなければならない。こうして祭壇は、いと聖なるものとなるであろう。
また洗盤と、その台とに油を注いで、これを聖別し、アロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて、水で彼らを洗い、アロンに聖なる服を着せ、これに油を注いで聖別し、祭司の務をさせなければならない。また彼の子たちを連れてきて、これに服を着せ、その父に油を注いだように、彼らにも油を注いで、祭司の務をさせなければならない。彼らが油そそがれることは、代々ながく祭司職のためになすべきことである」。


出エジプト記 40:1-15


聖所が完成しても、まだまだ神様は言いたいことがあったようです。
ハイク最後のデボーション投稿なので神様の指示を全て引用してみましたが、なげぇですね。
「なんでこんなに…」という気も少ししますが、きっと神様がイスラエルの人々を守り導き、イスラエルの人々が神様と語らうのに必要なことだったのだと思います。


モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。第二年の正月になって、その月の元日に幕屋は建った。すなわちモーセは幕屋を建て、その座をすえ、その枠を立て、その横木をさし込み、その柱を立て、幕屋の上に天幕をひろげ、その上に天幕のおおいをかけた。主がモーセに命じられたとおりである。


出エジプト記 40:16-19


モーセは神様の指示に全て従いました。
この後も「主がモーセに命じられたとおりである。」という言葉が繰り返され、強調されていました。モーセの信仰が伺えます。
さて、神様に従ってイスラエルの人々はどうなったのでしょうか?


そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。


出エジプト記 40:34-38


神様は力強い導きをイスラエルの人々に与えました。
イスラエルの人々が神様からの呼びかけに応答することで、神様もまた大きな恵みを返したのだと思います。
神様の印である雲が旅路を行く間ずっとあったことは、イスラエルの人々にとってとても心強いことだったと思います。


うむ、ハイク最後の日に読むと勇気が出る投稿であった!
イカーの皆さんのほとんどはクリスチャンではないと思います。
でも、エジプトを追われたイスラエル人が神様の導きで約束の地にたどり着いたように、はてなハイクを追われた皆さんが心安らかに過ごせる場所を見つけることができるよう祈ってます。


よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。


マタイによる福音書 18:18-19

2019年3月25日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日読んだ箇所から↓

彼らは青糸、紫糸、緋糸で、聖所の務のための編物の服を作った。またアロンのために聖なる服を作った。主がモーセに命じられたとおりである。

出エジプト記 39:1

今日読んだ箇所ではモーセの兄、アロンのための服を作ってました。
イスラエルの人々は28章に書かれていた神様からの指示通りに作っていたようです。
つまり、今日の箇所を引用しても同じような内容を再び投稿することになるのです( ̄▽ ̄)
ここ最近読んだ箇所がずっとそんな感じだったのがデボーション投稿をサボりがちだった理由の一つです…。

また胸当を巧みなわざをもって、エポデの作りのように作った。すなわち金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で作った。胸当は二つに折って四角にした。すなわち二つに折って、長さを一指当りとし、幅も一指当りとした。その中に宝石四列をはめた。すなわち、紅玉髄、貴かんらん石、水晶の列を第一列とし、第二列は、ざくろ石、るり、赤縞めのう、第三列は黄水晶、めのう、紫水晶、第四列は黄碧玉、縞めのう、碧玉であって、これらを金の編細工の中にはめ込んだ。その宝石はイスラエルの子たちの名にしたがい、その名と等しく十二とし、おのおの印の彫刻のように、十二部族のためにその名を刻んだ。

出エジプト記 39:8-14

宝石の種類まで指定してあったのに、ちゃんとイスラエル人の中に持っていた人が居て、しかもその人が心から喜んでその宝石を捧げたってすごいことですよね。
高価な材料ばかり登場して忘れがちですが、モーセたちは荒野の中に居るんですよね…。宝石どころかその日食べるものを用意できるかも危うい場所で壮麗な聖所を作るように命じた、神様の計画の深さが伺えますね。

こうして会見の天幕なる幕屋の、もろもろの工事が終った。イスラエルの人々はすべて主がモーセに命じられたようにおこなった。

出エジプト記 39:32

イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたように、そのすべての工事をした。モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それをなしとげていたので、モーセは彼らを祝福した。

出エジプト記 39:42-43

モーセは「神様の命じたことだから成し遂げて当然だ!」という態度ではなく、イスラエル人たちの仕事を確認して、それをちゃんと祝福していますね。
イスラエルの人々が財産や労働を心から喜んで捧げたのは神様の働きかけもあると思いますが、イスラエルの人々の信仰からも来ていると思うのです。
なんと言いますか、私も人にしてもらったことを「当然」と思わずに感謝したり、喜べるようになりたいですね。全然できていませんが…。

今確認したら、明日読む箇所は出エジプト記の最終章でした!
明日は恐らくハイクにデボーションを投稿するのが最後になるので、余りのキリの良さに驚いております。
大事なことなので二度言いますが、神様の計画は深いですねぇ…!

2019年3月21日〜24日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

まためっちゃ投稿サボっちゃいました…。出エジプト記34章から38章までの中から気になるところを引用していきます。


主はモーセに言われた、「あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。あなたは朝までに備えをし、朝のうちにシナイ山に登って、山の頂でわたしの前に立ちなさい。だれもあなたと共に登ってはならない。また、だれも山の中にいてはならない。また山の前で羊や牛を飼っていてはならない」。そこでモーセは前のような石の板二枚を、切って造り、朝早く起きて、主が彼に命じられたようにシナイ山に登った。彼はその手に石の板二枚をとった。


出エジプト記 34:1-4


よかった、モーセが怒りの余り割ってしまった証の板を再びもらえるそうです。
やっぱり文書で残ってないと、何事も不便ですものね!


ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」。モーセは急ぎ地に伏して拝し、そして言った、「ああ主よ、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、かたくなな民ですけれども、どうか主がわたしたちのうちにあって一緒に行ってください。そしてわたしたちの悪と罪とをゆるし、わたしたちをあなたのものとしてください」。


出エジプト記 34:5-9


主の栄光がモーセを通り過ぎたようですね。
「あわれみあり、恵あり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」と神様を描写する箇所がありますが、今の讃美歌でもこんな風に神様を歌っている気がします。
「悪と、とがと、罪とをゆるす者」という箇所は、後のイエスの降誕も預言しているような気がします。
モーセがへり下りつつ「一緒に行ってください。」と祈ってますが、私も神様に対してこの様に謙遜な態度をとりたいです。


この後神様はモーセ十戒を語るのですが、もう先に出てきたので飛ばしちゃいます。


モーセイスラエルの人々の全会衆に言った、「これは主が命じられたことである。あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。すなわち金、銀、青銅。青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸、やぎの毛糸。あかね染めの雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし油、注ぎ油と香ばしい薫香とのための香料、縞めのう、エポデと胸当とにはめる宝石。すべてあなたがたのうち、心に知恵ある者はきて、主の命じられたものをみな造りなさい。すなわち幕屋、その天幕と、そのおおい、その鉤と、その枠、その横木、その柱と、その座、箱と、そのさお、贖罪所、隔ての垂幕、机と、そのさお、およびそのもろもろの器、供えのパン、また、ともしびのための燭台と、その器、ともしび皿と、ともし油、香の祭壇と、そのさお、注ぎ油、香ばしい薫香、幕屋の入口のとばり、燔祭の祭壇およびその青銅の網、そのさおと、そのもろもろの器、洗盤と、その台、庭のあげばり、その柱とその座、庭の門のとばり、幕屋の釘、庭の釘およびそのひも、聖所における務のための編物の服、すなわち祭司の務をなすための祭司アロンの聖なる服およびその子たちの服」。


出エジプト記 35:4-19


たくさんの高価な材料と、たくさんの作るべきもの…。
「心から喜んでする者」という条件付きですが、集まるのでしょうか…?


イスラエルの人々の全会衆はモーセの前を去り、すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は、会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と、聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。


出エジプト記 35:20-21


そこで聖所のもろもろの工事をする賢い人々はみな、おのおのしていた工事をやめて、モーセに言った「民があまりに多く携えて来るので、主がせよと命じられた組立ての工事には余ります」。モーセは命令を発し、宿営中にふれさせて言った、「男も女も、もはや聖所のために、ささげ物をするに及ばない」。それで民は携えて来ることをやめた。材料はすべての工事をするのにじゅうぶんで、かつ余るからである。


出エジプト記 36:4-7


集まりましたね。それも有り余るほど…!
最近、サークルやバイトで何かと不足を感じる私ですが、この箇所を読んで勇気が湧いてきました(`・ω・´)
神様は必要なものを必ず用意してくださるのだなぁ。


また金で、二つのケルビムを造った。すなわち、これを打物造りとし、贖罪所の両端に置いた。一つのケルブをこの端に、一つのケルブをかの端に置いた。すなわちケルビムを贖罪所の一部として、その両端に造った。ケルビムは翼を高く伸べ、その翼で贖罪所をおおい、顔は互に向かい合った。すなわちケルビムの顔は贖罪所に向かっていた。


出エジプト記 37:7-9


贖罪所をおおうほどの翼を持った金のケルビム…。なんかすごそう…。
イスラエルの人々は神様のために惜しみなく壮大なものを作ったのですね。


ユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルは、主がモーセに命じられた事をことごとくした。ダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブは彼と共にあって彫刻、浮き織をなし、また青糸、紫糸、緋糸、亜麻糸で、縫取りをする者であった。
聖所のもろもろの工作に用いたすべての金、すなわち、ささげ物なる金は聖所のシケルで、二十九タラント七百三十シケルであった。会衆のうちの数えられた者のささげた銀は聖所のシケルで、百タラント千七百七十五シケルであった。


出エジプト記 38:22-25


神様がモーセに指示を出す箇所と被ってしまうので大幅に省略したのですが、イスラエルの人々はモーセが聞いた通りに聖所を作っていきました。
荒野の中にありながら、高価な材料も人手も不足することなく満ち足りました。
銀百タラントってどれくらいだったのでしょうか?でも、すごく多いということはなんとなく分かります。
神様って、すごいですね。

 

あ、書くの忘れてましたが、35章19節にさらっとアロンが出てきているので、アロンは生きてるみたいですね。
前回の投稿でややこしくさせてしまいすみません…。

2019年3月19日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓アロンはどうなったのでしょうか…?


さて、主はモーセに言われた、「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。わたしはひとりの使をつかわしてあなたに先立たせ、カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを追い払うであろう。あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい。しかし、あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらないであろう」。


出エジプト記 33:1-3


神様は以前約束したように、イスラエル人たちをカナンの地に導くようです。
確か、クマバチの群れを前に置いてカナン人やアモリ人たちを追い払うんだっけ…。
しかも神様、カナンの地まで一緒に行ってくれないのか…!


民はこの悪い知らせを聞いて憂い、ひとりもその飾りを身に着ける者はなかった。主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、かたくなな民である。もしわたしが一刻でも、あなたがたのうちにあって、一緒にのぼって行くならば、あなたがたを滅ぼすであろう。ゆえに、今、あなたがたの飾りを身から取り去りなさい。そうすればわたしはあなたがたになすべきことを知るであろう』」。それで、イスラエルの人々はホレブ山以来その飾りを取り除いていた。


出エジプト記 33:4-6


神様が共に行かないことを聞いて、イスラエル人たちは不安な様子です。
ところで、飾りってなんだろ…。信仰の印みたいなものでしょうか?


モーセは幕屋を取って、これを宿営の外に、宿営を離れて張り、これを会見の幕屋と名づけた。すべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行った。モーセが出て、幕屋に行く時には、民はみな立ちあがり、モーセが幕屋にはいるまで、おのおのその天幕の入口に立って彼を見送った。モーセが幕屋にはいると、雲の柱が下って幕屋の入口に立った。そして主はモーセと語られた。民はみな幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、立っておのおの自分の天幕の入口で礼拝した。人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。こうしてモーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。


出エジプト記 33:7-11


神様がモーセに命じた幕屋よりずっと簡素なものな気がします。それでもモーセは神様と語り合うための場所を用意したのですね。
「人がその友と語るように」、私も神様と語り合ってみたいです。


モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。


出エジプト記 33:12-14


モーセが「わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。」と言っているということは、アロンはやはり神様に撃たれてしまったのでしょうか…?
不安に思う時、助け手が欲しい時、祈れば神様は聞いてくださるのですね。


主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。


出エジプト記 33:19-23


なんかよく分からないけど、次の章ですごいことが起こりそうです(`・ω・´)