2020年3月2日デボーション
お久しぶりのデボーション投稿でございます(`_´)ゞ
今日からエステル記に入ったということで、キリの良いところから再開したいと思います。
ちなみに今日読んだ箇所には主人公、エステルは登場しません!残念!
アハシュエロスすなわちインドからエチオピヤまで百二十七州を治めたアハシュエロスの世、
アハシュエロス王が首都スサで、その国の位に座していたころ、
その治世の第三年に、彼はその大臣および侍臣たちのために酒宴を設けた。ペルシャとメデアの将軍および貴族ならびに諸州の大臣たちがその前にいた。
その時、王はその盛んな国の富と、その王威の輝きと、はなやかさを示して多くの日を重ね、百八十日に及んだ。
これらの日が終った時、王は王の宮殿の園の庭で、首都スサにいる大小のすべての民のために七日の間、酒宴を設けた。
エステル記 1章1-5節
いきなりアケメネス朝ペルシャから物語は始まります。
アケメネス朝ペルシャがバビロン帝国を滅ぼしたことでユダヤの人々はバビロン捕囚から解放されたんだっけな。
ペルシャ、なんか豊かそうな国です。
王妃ワシテもまたアハシュエロス王に属する王宮の内で女たちのために酒宴を設けた。
七日目にアハシュエロス王は酒のために心が楽しくなり、王の前に仕える七人の侍従メホマン、ビズタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタルおよびカルカスに命じて、
王妃ワシテに王妃の冠をかぶらせて王の前にこさせよと言った。これは彼女が美しかったので、その美しさを民らと大臣たちに見せるためであった。
ところが、王妃ワシテは侍従が伝えた王の命令に従って来ることを拒んだので、王は大いに憤り、その怒りが彼の内に燃えた。
エステル記 1章9-12節
酔っ払いに呼び出されて、しかも見せ物にされるのは王妃ワシテも嫌だったでしょうね!!
逆ギレしたアハシュエロス王はどうするのでしょ?
そこで王は時を知っている知者に言った、――王はすべて法律と審判に通じている者に相談するのを常とした。
エステル記 1章13節
アハシュエロス王は遵法主義だったんですねぇ。
…ん?
「王妃ワシテは、アハシュエロス王が侍従をもって伝えた命令を行わないゆえ、法律に従って彼女にどうしたらよかろうか」。
メムカンは王と大臣たちの前で言った、「王妃ワシテはただ王にむかって悪い事をしたばかりでなく、すべての大臣およびアハシュエロス王の各州のすべての民にむかってもしたのです。
エステル記 1章15-16節
もし王がよしとされるならば、ワシテはこの後、再びアハシュエロス王の前にきてはならないという王の命令を下し、これをペルシャとメデアの法律の中に書きいれて変ることのないようにし、そして王妃の位を彼女にまさる他の者に与えなさい。
王の下される詔がこの大きな国にあまねく告げ示されるとき、妻たる者はことごとく、その夫を高下の別なく共に敬うようになるでしょう」。
エステル記 1章19-20節
遵法主義というか、自分で法律を作っちゃう感じなんですね。
ワシテ王妃は酔っ払いの誘いを断っただけで王妃の位を剥奪されるようです。
世が世なら#MeToo案件!!
王と大臣たちはこの言葉をよしとしたので、王はメムカンの言葉のとおりに行った。
王は王の諸州にあまねく書を送り、各州にはその文字にしたがい、各民族にはその言語にしたがって書き送り、すべて男子たる者はその家の主となるべきこと、また自分の民の言語を用いて語るべきことをさとした。
エステル記 1章21-22節
「妻は夫に従うべき」みたいな言葉、新約聖書にもありましたけれども、個人的にはその後に夫への戒めが妻への戒め以上に書かれていることを主張してぇです。
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
エペソ人への手紙 5章22-29節
ペルシャでは夫が敬われるのと同じくらい、妻が愛されていただろうか?