キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年3月27日〜29日デボーション

はてなハイクが終わってしまって、気が抜けていました…。

一昨日、昨日、今朝読んだ箇所を引用しつつ紹介します。

 

主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。

レビ記 1:1-4

 

レビ記はこんな感じで捧げものの仕方について書かれているみたいです。

この燔祭は時に神様の恵みを感謝し、賛美し、罪を贖ったり、願い事をするために行われていたようです。

「なんで牛を丸々一頭…」と思わなくもないですが、そもそもその牛も神様から与えられた恵みなんですよね。

たくさんもらった恵みの一部を感謝して返す、と考えたら自然な行為のような気もします。私は。

 

彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。

レビ記 1:5-9

 

屠る…血…内臓…。うむむ、なんかグロい…。

モーセたちが生きていた時代は、こうやって死が身近だったんだなぁ…。

 

人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。

レビ記 2:1-3

 

素祭は神様に感謝して、燔祭の供え物と共に麦粉と油を混ぜたものを神様に捧げたことを言うそうです。

残ったものは祭司が食べられるのですねぇ。美味しそう…。

 

もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。彼はその供え物の頭に手を置き、会見の幕屋の入口で、これをほふらなければならない。そしてアロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたその酬恩祭の犠牲のうちから火祭を主にささげなければならない。すなわち内臓をおおう脂肪と、内臓の上のすべての脂肪、二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共にとられる肝臓の上の小葉である。

レビ記 3:1-4

 

今度は「酬恩祭」ですね!神様の恵みに感謝し、神様との関係を確かにするために行われたそうです。

ここでも血を注いだり、内臓を乗り出さないといけないのですね…。

 

祭司はこれを祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭としてささげる食物であって、香ばしいかおりである。脂肪はみな主に帰すべきものである。あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが、すべてその住む所で、代々守るべき永久の定めである』」。

レビ記 3:16-17

 

あ、酬恩祭の捧げ物は食べられないのね…。いや、脂肪と血は食べてはいけないだけでお肉はいいのかしら?

あと、繰り返される「主に捧げる香ばしい香り」という表現が好きです。

私も香ばしい香りを放ちたいですねぇ…(火で焼かれたい訳ではないですよ)。

 

主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『もし人があやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。すなわち、油注がれた祭司が罪を犯して、とがを民に及ぼすならば、彼はその犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない。

レビ記 4:1-3

 

今度は罪祭ですね。罪を贖うために家畜を捧げることのようです。

祭司は牛一頭、イスラエルの会衆全体の場合も牛一頭、支配者の場合は雄ヤギ一頭、一般の人の場合は雌ヤギ一頭を捧げなければならなかったようです。

ではでは、どんな罪を犯したら罪祭を行わなければならないのでしょうか?

 

もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。また、もし人が汚れた野獣の死体、汚れた家畜の死体、汚れた這うものの死体など、すべて汚れたものに触れるならば、そのことに気づかなくても、彼は汚れたものとなって、とがを得る。また、もし彼が人の汚れに触れるならば、その人の汚れが、どのような汚れであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、とがを得る。また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。

レビ記 5:1-4

 

あー、罪犯してるなぁー。雌ヤギ捧げなきゃだわー。 

特に偽証の罪は犯してしまっている気がします…。世間体を気にしてとは言え、友人について本当は思ってないことを言ってしまうこともあって…私は罪深いです…。

 

「もし人が不正をなし、あやまって主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルに当る雄羊の全きものを、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。また人がもし罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをしたときは、たといそれを知らなくても、彼は罪を得、そのとがを負わなければならない。彼はあなたの値積りにしたがって、雄羊の全きものを群れのうちから取り、愆祭としてこれを祭司のもとに携えてこなければならない。こうして、祭司が彼のために、すなわち彼が知らないで、しかもあやまって犯した過失のために、あがないをするならば、彼はゆるされるであろう。

レビ記 5:15-18

 

罪を贖う捧げ物にはもう一つのパターンがあるみたいですね。

「彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。」とありますが、この究極のものがイエスが十字架にかかったことなんですよね…。

 

参考文献↓

https://blogs.yahoo.co.jp/sabia59_62/51574218.html