自分が恋愛を諦めそうな理由と自分の性自認
課題が終わって自分で自由に文章を書きたくなったのでこんな時間にブログを書きます。
BGMは課題をやっていた時と同じくthe Beatlesです。
鍵をかけてやっているハイカー向けTwitterアカウントで昨夜、「そもそも恋愛と結婚はいまのところできないと思っている。諦めた方が気が楽なこともある。」みたいなことを書いたと思います。
多くの方が「20代で何言ってんだてめえ!」「大学生なんだから出会いなんていくらでもあるだろう!」と思ったことでしょう。すみません。
それと、心配してくださった方にもごめんなさい。
でもこれはここしばらく、あるいは10年ほど抱いていた自分に対する疑念なのです。
直接的に何があったのか書くと知っている人に見つかって大変なことになるので、とりあえず去年の夏にとある尊敬するアーティストのライブに行った時のことを書きます。
因みにそのアーティストは土屋礼央さんという私が中学生時代から大好きな人です。
その日は少し風邪気味で身体的にも精神的にも調子が悪かったのかもしれません。
あるいは表参道のきらきらしておしゃれな人しか受け付けないような雰囲気にやられたのかもしれません。
とにかく好きな人のライブに行くには十分なコンディションではありませんでした。
ライブ会場は小さめのライブハウスで、平日昼間ということもあって小さな子どもの姿もありました。
この距離の近さが良くなかった。
礼央さんが登場!
一瞬客席を見る礼央さん!
ばっちり目が合ってしまった私!
しかし突然のことで驚いたのとメンタルコンディションの悪さとで思わず嫌そうな表情をしてしまった私!
少し落ち込んだように見えた礼央さん!
歌い始めてもなんだか声がうまく出ない様子の礼央さん!
「あ、あれ?私のせい…ではないよね…?」と内心焦る私!!!
…というのが一部始終です。
さっきまでアカデミックな文章を書いていたので反動でかなり砕けた文体になりましたね…。
ちなみにこんなこと書いていますがライブはとても楽しかったです♪
礼央さんが『フレンド・ライク・ミー』を歌ってくださったのが嬉しかった(*´ω`*)
それでですね、きっと「普通」の方は10年以上好きなアーティストのライブに行ってそのアーティストと目が合ったりしたらどんなに調子が悪くても反射的に大喜びできると思うのです。(そうじゃなかったらごめんなさい。)
なんで私は反射的に嫌そうな顔をしてしまったのでしょうね。
後から振り返ると私は「群衆の一部」あるいは「名もない雑草」で居たかったのでしょう。
礼央さんから見れば私は認識もされないし、ましてや好意も抱かれないような存在でいたかった。
そうすれば安心して礼央さんの歌を聴けるし、礼央さんを応援することができる。
でもあの日、私は一瞬だけだけど礼央さんに一個人として認識されてしまった。
「名もない雑草」から「一輪の月見草」になってしまった。
そんなシャレオツな称号は私に相応しくない!!!
この称号を早く捨ててしまいたい!!!
こんな感じで私は不安に陥ったのかもしれません。
あえて礼央さんの話をしましたけれど、つまり似たようなことが実際の友人関係においてもあった訳でございます。
私は「名もない雑草」として接していたつもりだったのに、いつのまにか「一輪の月見草」になっていたのです。
私は誰かの「一輪の月見草」が務まるほど自分が好きではないし、それほど自分が成熟しているとも思っていません。
こんな状態で恋愛しても相手と自分を傷つけるだけだ。
そういう訳で、私は恋愛や結婚に憧れつつそれらを無意識に避けていたような気がします。
自分で書いてても「クソめんどくさい奴だなあ」と思ってしまいます(´・ω・`)
さて、では私はなぜ自分のことを「名もない雑草」と思い込みやすいのでしょうか。
これは私自身の自信の無さと同じくらいに自分の性自認が関わっていると最近気づきました。
私はどうも「あらゆる人が同性にも異性にも感じる」感覚の持ち主のようです。
何か用語を当てはめるとしたら「クエスチョニング(Questioning)」か「Xジェンダー」でしょうか。
おそらく同性愛者やトランスジェンダーと比べると研究が進んでいない性自認のタイプで、私も自分のアイデンティティーがよく分かっていないのですが…。(良い本がありましたら教えてください!)
そして「自分は男性か女性かよく分からんし、なんか中間部に居る気がする」と思っていると、自然と「他人もきっと自分を女性か男性かよく分からない存在として見るだろう」と思い込んじゃうんですね。
でも私は自分で思っているより女性的な見た目なようですね。
声は低いし、ズボンをよく履くし、粗雑な話し方をしているにも関わらずです。
ポールにキャッキャッし過ぎてるのかなあ。
ま、いいや。
とにもかくにも、誰かが私を「一輪の月見草」と見る時、それはその人が私を「女性として好き」という訳ですよね?
そしてそういう場面に直面した時、私は「女性か男性かのどちらかの性」に見られることを嫌うのかもしれません。
誰かの「一輪の月見草」になるとき、私は自分の「女性ではない部分」「ジェンダー的にあやふやな部分」を捨てなければいけなくなるのでしょう。
自分のアイデンティティーの中核部分を隠したり捨て去ったりして誰かとパートナーシップを結ぶのは、今の私には割り切れないです。
じゃあ自分の性自認について友人みんなに話せば良いじゃないかとも思うのですが、自分でもよく分かっていないあやふやなものを他人に話すのはそこそこ負担がかかります。
そしてよく分からないままで話すと誤解を生んだり理解してもらえなかったりするでしょう。
あと、まあ、クリスチャンの友人にはちょっと話しづらい類の話題でもありますしね。
夜中の勢いで書いているからちゃんと説明できているか分からないや。
それと自分がクエスチョニングかXジェンダーだとすると、ハイカーさんたちにもリアル友人にも「ポールかっこいいよおおおおおおおおお!!!愛してるよおおおおおおおお!!!」みたいなことを言ってきたのは何なのか説明もできないなあ。
いつか諸々すっきりする時がくるのかな。
今日は寝るかな。
明日も授業だわ。
おやすみなさいませ。
明日が良い一日になりますように。