キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

「不必要」って何?

ブログではお久しぶりです。

毎朝、聖書を読み続けてはいるのですが、ブログには書かずにいる現状です。

ちなみに今は『エズラ記』を読んでいます。

少しずつ読み進めているのでいつかまたデボーションを投稿したいです。

 

さて、デボーション投稿をほったらかして何を書きたいのかといいますと、現在裁判が行われているとある事件についてです。

その事件では19人の命が一夜にして奪われました。

被告はその19人、重度障碍者たちについて「社会に必要ない」「不幸しか生まない」と言いました。

この狂った考えがこの人だけのものであればまだ良かった。

事件の後、被告の考えに共感する人が少なからずいることも明らかになりました。

 

はてなハイクの最後の日に明かしたように、私はサークルやアルバイトで「障碍者」と呼ばれる人たちと関わっています。

この事件の第一報を聞いて最初に感じたのは、多くの命が失われたことに対する胸が裂けそうなほどの悲しみでした。

事件の概要が明らかになるにつれ頭を占めたのは「自分が知っている人たちに直接大きな憎しみを向けられるかもしれない」という恐れでした。

実際に「重度障碍者だから」という理由で19人もの命を奪った人が居たのですから、私の不安は的外れなものではないはずです。

 

裁判に関するニュースや記事を見るたび、重いものが頭の上からのしかかるように苦しいです。

被告の言葉一つ一つに恐怖感を覚えます。

被告の言葉は確実に、私がサークルやアルバイトで関わる人たちに向けられています。

ただ、恐怖感の原因はそれだけでない気もしています。

 

私は大学に入るまでいわゆる「障碍者」とはほとんど関わりがありませんでした。

彼らがどのように暮らし、何を楽しみにして、何を考えて生きているのか、何も知りませんでした。

私がもし今所属しているサークルやアルバイトに出会っていなかったら、被告と同じように「障碍者は社会に必要だろうか?」と考えていたかもしれません。

そのような考えを恥ずかしげもなく披露していたかもしれません。

そんな有り得たかもしれない自分の姿が恐ろしいのです。

 

もう一つ恐ろしいのは、人間を「必要」「不必要」の二種類に分類しようとする社会の流れです。

私自身が「社会」から「不必要」とされることに恐れています。

そもそも「社会に必要」「社会に不必要」とは何なんでしょうか?

人が作ったものは全て、いずれ朽ちてこの世から失われるのに。

お金など普遍的価値があるように見えるものも、すこし情勢が変われば無価値になるのに。

「社会に必要」「社会に不必要」という物差しが如何に愚かであるか、被告にはわからないのでしょうか?

「社会に不必要」とレッテルを貼られた人たちの悲しみが分からないのでしょうか?

 

裁判では被害者家族たちの悲痛な心境も明らかになっています。

ただ、いくら感情をこめて被害者家族が言葉を紡いでも、被告には届いていないようです。

障碍者は社会に不必要」という自らの考えを固持しているようです。

 

この事件は被告に死刑を言い渡した時点で終わらせてはいけない気がします。

人が他人を選別することの愚かさ、残酷さを被告に思い知らせなければなりません。

誰もが「社会に必要」か「社会に不必要」か判断されるべきではないことを世の中に広めなければなりません。

 

辛くなってきたので楽しいことを書きます。

 

被告は「重度障碍者はコミュニケーションができない」なんて言っていましたが、私は全く反対します。

コミュニケーションはよくキャッチボールに例えられますが、「障碍者」とのコミュニケーションはこちらのボールを受け取ってもらえなかったり、向こうから一方的にボールを投げつけられたりする時もあります。

そもそもボールを投げてこない人、ボールを投げたか分かりにくい人もいます。

そんなキャッチボールでも、私は楽しんでいます。

ボールをどうにか受け取ってうまく投げ返せたときの喜び、

ボールを投げ返せなくても互いに笑いあった時間、

月並みな表現ですが、それらは私にとって尊い宝物です。

一緒にボールを投げあった彼らの一人一人が、私にとって大切な存在です。

 

彼らは大切なことを私に教えてくれます。

私には些細なことに見えるものに対しても、彼らは大きく感情を動かします。

彼らの価値観は多種多様で、それぞれユニークなスコープを持っているようです。

そんな彼らと関わる中で、私も自分のスコープを大事にするようになりました。

自分自身も価値ある存在なんだと気づくようになりました。

 

一方で彼らの自由な価値観を脅かす「社会通念」のようなものにも気づくようになりました。

その一つが被告の言う「重度障碍者は社会に不必要」というものです。

 

私は被告を赦せません。

その人は19人の命を独善的な理由で奪いました。

19人の人生や人格を全否定しました。

その独善的な考えを世の中に広めました。

勝手に「社会に不必要」と判断される恐怖を多くの人に与えました。

私は被告を赦せません。

 

裁判の中で正しい判断が行われますように。

被害者の家族が伝えたいことを全て被告に伝えられますように。

被告の独善的な考えが改められますように。

19人の魂が安らかな場所にありますように。

アーメン。

 

ではでは、また気が向いた時にブログを書きます。

さいなら。