キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年3月19日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓アロンはどうなったのでしょうか…?


さて、主はモーセに言われた、「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい。わたしはひとりの使をつかわしてあなたに先立たせ、カナンびと、アモリびと、ヘテびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとを追い払うであろう。あなたがたは乳と蜜の流れる地にのぼりなさい。しかし、あなたがたは、かたくなな民であるから、わたしが道であなたがたを滅ぼすことのないように、あなたがたのうちにあって一緒にはのぼらないであろう」。


出エジプト記 33:1-3


神様は以前約束したように、イスラエル人たちをカナンの地に導くようです。
確か、クマバチの群れを前に置いてカナン人やアモリ人たちを追い払うんだっけ…。
しかも神様、カナンの地まで一緒に行ってくれないのか…!


民はこの悪い知らせを聞いて憂い、ひとりもその飾りを身に着ける者はなかった。主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは、かたくなな民である。もしわたしが一刻でも、あなたがたのうちにあって、一緒にのぼって行くならば、あなたがたを滅ぼすであろう。ゆえに、今、あなたがたの飾りを身から取り去りなさい。そうすればわたしはあなたがたになすべきことを知るであろう』」。それで、イスラエルの人々はホレブ山以来その飾りを取り除いていた。


出エジプト記 33:4-6


神様が共に行かないことを聞いて、イスラエル人たちは不安な様子です。
ところで、飾りってなんだろ…。信仰の印みたいなものでしょうか?


モーセは幕屋を取って、これを宿営の外に、宿営を離れて張り、これを会見の幕屋と名づけた。すべて主に伺い事のある者は出て、宿営の外にある会見の幕屋に行った。モーセが出て、幕屋に行く時には、民はみな立ちあがり、モーセが幕屋にはいるまで、おのおのその天幕の入口に立って彼を見送った。モーセが幕屋にはいると、雲の柱が下って幕屋の入口に立った。そして主はモーセと語られた。民はみな幕屋の入口に雲の柱が立つのを見ると、立っておのおの自分の天幕の入口で礼拝した。人がその友と語るように、主はモーセと顔を合わせて語られた。こうしてモーセは宿営に帰ったが、その従者なる若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋を離れなかった。


出エジプト記 33:7-11


神様がモーセに命じた幕屋よりずっと簡素なものな気がします。それでもモーセは神様と語り合うための場所を用意したのですね。
「人がその友と語るように」、私も神様と語り合ってみたいです。


モーセは主に言った、「ごらんください。あなたは『この民を導きのぼれ』とわたしに言いながら、わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。しかも、あなたはかつて『わたしはお前を選んだ。お前はまたわたしの前に恵みを得た』と仰せになりました。それで今、わたしがもし、あなたの前に恵みを得ますならば、どうか、あなたの道を示し、あなたをわたしに知らせ、あなたの前に恵みを得させてください。また、この国民があなたの民であることを覚えてください」。主は言われた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与えるであろう」。


出エジプト記 33:12-14


モーセが「わたしと一緒につかわされる者を知らせてくださいません。」と言っているということは、アロンはやはり神様に撃たれてしまったのでしょうか…?
不安に思う時、助け手が欲しい時、祈れば神様は聞いてくださるのですね。


主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。また言われた、「しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである」。そして主は言われた、「見よ、わたしのかたわらに一つの所がある。あなたは岩の上に立ちなさい。わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたをおおうであろう。そしてわたしが手をのけるとき、あなたはわたしのうしろを見るが、わたしの顔は見ないであろう」。


出エジプト記 33:19-23


なんかよく分からないけど、次の章ですごいことが起こりそうです(`・ω・´)