キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年3月14日〜18日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

えー、かなりデボーション投稿をサボってしまいました…。出エジプト記の28章から32章の間の気になった箇所を引用しつつ個人的見解または感想を書いていきますー。


またイスラエルの人々のうちから、あなたの兄弟アロンとその子たち、すなわちアロンとアロンの子ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルとをあなたのもとにこさせ、祭司としてわたしに仕えさせ、またあなたの兄弟アロンのために聖なる衣服を作って、彼に栄えと麗しきをもたせなければならない。あなたはすべて心に知恵ある者、すなわち、わたしが知恵の霊を満たした者たちに語って、アロンの衣服を作らせ、アロンを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。


出エジプト記 28:1-3


モーセの兄、アロンとその子孫は神様から司祭の役目を与えられました!
…与えられたと思ったんですよ、四日前は…。
今日読んだ箇所を見てくださいよ…。↓


民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。


出エジプト記 32:1-4


おいコラ、アロン!何してんねんアロン!
偶像崇拝なんかしたらアカンやろ!!!
思わずエセ関西弁になってしまいました…。今日読んで、本当に驚いた箇所です…。
「せっかく司祭を任されたのに、アロンはこの後どうなるんだろう?」というモヤモヤを抱えたまま四日前に読んだ28章を振り返っていきます…。


あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を刻まなければならない。すなわち、その名六つを一つの石に、残りの名六つを他の石に、彼らの生れた順に刻まなければならない。宝石に彫刻する人が印を彫刻するように、イスラエルの子たちの名をその二つの石に刻み、それを金の編細工にはめ、この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない。


出エジプト記 28:9-12


あなたはまたさばきの胸当を巧みなわざをもって作り、これをエポデの作りのように作らなければならない。すなわち金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、これを作らなければならない。これは二つに折って四角にし、長さは一指当り、幅も一指当りとしなければならない。またその中に宝石を四列にはめ込まなければならない。すなわち紅玉髄、貴かんらん石、水晶の列を第一列とし、第二列は、ざくろ石、るり、赤縞めのう。第三列は黄水晶、めのう、紫水晶。第四列は黄碧玉、縞めのう、碧玉であって、これらを金の編細工の中にはめ込まなければならない。その宝石はイスラエルの子らの名に従い、その名とひとしく十二とし、おのおの印の彫刻のように十二の部族のためにその名を刻まなければならない。


出エジプト記 28:15-21


宝石にイスラエルの子どもたちの名前を刻むのは神に選ばれた祖先の一人一人を心に置くこと、またその祖先から出た民族の一人一人を心に置くためなのかな、と思いました。
石って、なんか重そうですね。名前を刻むのも大変そうです…。


そしてあなたはこれをあなたの兄弟アロンおよび彼と共にいるその子たちに着せ、彼らに油を注ぎ、彼らを職に任じ、彼らを聖別し、祭司として、わたしに仕えさせなければならない。


出エジプト記 28:41


油を注ぐのは、旧約聖書の時代での祭司を任ずる行為でした。
エスもまた、油を注がれています↓
よくクリスチャン界隈でイエス・キリストは「祭司の中の祭司」と呼ばれているのですが、そのためです。


さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
エスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。


マタイによる福音書 26:6-13


さて、次の出エジプト記29章では家畜の捧げ方が書かれています。


あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次の事を彼らにしなければならない。すなわち若い雄牛一頭と、きずのない雄羊二頭とを取り、また種入れぬパンと、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬせんべいとを取りなさい。これらは小麦粉で作らなければならない。そしてこれを一つのかごに入れ、そのかごに入れたまま、かの一頭の雄牛および二頭の雄羊と共に携えてこなければならない。


出エジプト記 29:1-3


あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。そして会見の幕屋の入口で、主の前にその雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、指をもって、これを祭壇の角につけ、その残りの血を祭壇の基に注ぎかけなさい。


出エジプト記 29:10-12


雄牛( ; ; )
他に連れてきた雄羊二頭も屠られ、神様に捧げられます。雄羊( ; ; )


あなたが祭壇の上にささぐべき物は次のとおりである。すなわち当歳の小羊二頭を毎日絶やすことなくささげなければならない。その一頭の小羊は朝にこれをささげ、他の一頭の小羊は夕にこれをささげなければならない。


出エジプト記 29:38-39


仔羊も毎日…。神様のためとはいえ辛いですね…。
旧約聖書の時代では沢山の家畜が捧げられていたようですが、現在のキリスト教の教会では羊を掻っ捌いて祭壇の上に載せる、というようなことはしません。
何故かと言いますと、イエス・キリストが十字架にかかったことで全ての人の罪が贖われ、家畜を掻っ捌いて神様に捧げる必要が無くなったからです。イエス・キリストが「神の子羊」とも呼ばれるのはそのためです。↓


その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。


ヨハネによる福音書 1:29-31


いや、私の罪のために十字架にかかったなんて、申し訳なくなってしまいます…。神様の愛は大きいです…。


主はモーセに言われた、「あなたがイスラエルの人々の数の総計をとるに当り、おのおのその数えられる時、その命のあがないを主にささげなければならない。これは数えられる時、彼らのうちに災の起らないためである。すべて数に入る者は聖所のシケルで、半シケルを払わなければならない。一シケルは二十ゲラであって、おのおの半シケルを主にささげ物としなければならない。すべて数に入る二十歳以上の者は、主にささげ物をしなければならない。あなたがたの命をあがなうために、主にささげ物をする時、富める者も半シケルより多く出してはならず、貧しい者もそれより少なく出してはならない。あなたはイスラエルの人々から、あがないの銀を取って、これを会見の幕屋の用に当てなければならない。これは主の前にイスラエルの人々のため記念となって、あなたがたの命をあがなうであろう」。


出エジプト記 30:11-16


今のキリスト教の礼拝で行われている献金に当たるものでしょうか?
因みに、イエス献金についてこう言っています。↓


エスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。


マルコによる福音書 12:41-44


さて、続きの出エジプト記31章を読んでいきま


主はまたモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。


出エジプト記 31:12-14


私、殺されますね…。安息日にもめちゃくちゃ働いてますもん…。
新約聖書の中で安息日について書いてある箇所はなかったかしら、と思って探してみたらこんな箇所を見つけました↓


あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭や新月安息日などについて、だれにも批評されてはならない。これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。


コロサイ人への手紙 2:13-17


大切なのは主なる神だけを神として崇め、イエス・キリストによって罪が赦されたことを知ることなのだと思います。


さて、32章ではアロンやイスラエル人が偶像崇拝をしてしまい神様が激おこになります。災害も起こそうとします。


モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。


出エジプト記 32:11-14


モーセの言葉を聞き、神様は災害を起こすことを思い直します。
神様は義なる方なので、一度言ったことは必ず実現なさる方なのです。


モーセは身を転じて山を下った。彼の手には、かの二枚のあかしの板があった。板はその両面に文字があった。すなわち、この面にも、かの面にも文字があった。その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。しかし、モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。


出エジプト記 32:15-20


え、証の板割っちゃって大丈夫なん…?
モーセがめちゃくちゃ怒ってるのは分かるんやけど、割って大丈夫なん…?


モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。


出エジプト記 32:25-28


余りに多くの人が偶像崇拝に夢中になってしまったようです…。
そして突然のバイオレンス…。


モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである。


出エジプト記 32:31-35


神様は偶像崇拝から立ち返った人々を赦しましたが、それ以外の人々のことは裁かれました。
ていうか、ホンマにアロンどうなったん…?アロンのことが気になり過ぎてエセ関西弁になってまう…。


…関西の皆様、本当にすみません。