キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年3月6日、7日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

日付変わりまして一昨日の朝と昨日の朝読んだ箇所から↓

神はこのすべての言葉を語って言われた。
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

出エジプト記 20:1-6

私は付き合いで神社とかお寺に行くことはあるのですが、お参りしたりお守りを買ったりすることはありません。私が信仰する神様に怒られてしまうからです。
ポケモンGOしてる時に神社のポケストップを回す時には、神様と神社の方にちょっと申し訳なさを感じます(笑)

あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

出エジプト記 20:7

英語圏の人ってよく"Oh, my God!"と言いますが、本当はこれも良くないらしいんですよね…。"Oh, no!"がおすすめです。
お祈りする時に大切に御名を唱えるのが良いのかもしれません。

安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。

出エジプト記 20:8-11

礼拝にはちゃんと行くようになったけど、安息日にもバイトしちゃってるわ…。半分遊んでるようなバイトだけども…(言い訳)
あ、でもイエス安息日について語る箇所が新約聖書にありました!

すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。

マタイによる福音書 12:10-13

私のバイトも人を助けるようなものだから大丈夫かな!多分!人を助けてお金貰ってるけども!

あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。

出エジプト記 20:12-17

これらの戒めは新約聖書にも出てきた気がします!
キリスト教って、家族と同じくらい隣人も大切にする宗教な気がします。

民は皆、かみなりと、いなずまと、ラッパの音と、山の煙っているのとを見た。民は恐れおののき、遠く離れて立った。彼らはモーセに言った、「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞き従います。神がわたしたちに語られぬようにしてください。それでなければ、わたしたちは死ぬでしょう」。モーセは民に言った、「恐れてはならない。神はあなたがたを試みるため、またその恐れをあなたがたの目の前において、あなたがたが罪を犯さないようにするために臨まれたのである」。そこで、民は遠く離れて立ったが、モーセは神のおられる濃い雲に近づいて行った。

出エジプト記 20:18-21

神様と本当に対峙すると、この箇所のイスラエルの民のように恐くなって離れたくなるものなのかもしれません。
神様がそうやって恐ろしくあるのは、人を罪から遠ざけるためのことで、恐ろしさは神様の愛から来てるのかもしれません。

あなたがヘブルびとである奴隷を買う時は、六年のあいだ仕えさせ、七年目には無償で自由の身として去らせなければならない。

出エジプト記 21:2

おわ、奴隷制が登場!
多分、かつての奴隷貿易が正当化されていたのもこういう聖書箇所が関係しているんだろうなあ。
書いてあることの大体が余り理解できませんでしたが、イスラエルの民における奴隷制は奴隷の権利がある程度保証され、仕えることの対価に金銭が払われることが定められていたようです。借金清算の手段だったのかもしれません。

もし人がその娘を女奴隷として売るならば、その娘は男奴隷が去るように去ってはならない。彼女がもし彼女を自分のものと定めた主人の気にいらない時は、その主人は彼女が、あがなわれることを、これに許さなければならない。彼はこれを欺いたのであるから、これを他国の民に売る権利はない。彼がもし彼女を自分の子のものと定めるならば、これを娘のように扱わなければならない。彼が、たとい、ほかに女をめとることがあっても、前の女に食物と衣服を与えることと、その夫婦の道とを絶えさせてはならない。彼がもしこの三つを行わないならば、彼女は金を償わずに去ることができる。

出エジプト記 21:7-11

この箇所は日本語で読むと分かりづらいですが、英語で読んだら女奴隷は実質的には側女だったようです。
女奴隷を買ったのにその奴隷が気に入らなかった場合は、主人はお金を渡した上で去らせなければいけなかったみたいです。
男性よりも力が弱い女性が男性の良いように身分を転々としないように、神様は女性を守る戒めを与えたのでしょうね。

人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。しかし、人がたくむことをしないのに、神が彼の手に人をわたされることのある時は、わたしはあなたのために一つの所を定めよう。彼はその所へのがれることができる。しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。

出エジプト記 21:12-16

「人がたくむことをしない〜一つの所を定めよう。」の部分、分かりにくいですが英語版だと「故意でなく人を殺してしまった場合は神が逃れる場所を用意しよう。」みたいなニュアンスになってました。
殺人即ち死刑か…。殺人はそれほど重い罪なんだろうけども…。

もし人が互に争って、身ごもった女を撃ち、これに流産させるならば、ほかの害がなくとも、彼は必ずその女の夫の求める罰金を課せられ、裁判人の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害がある時は、命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。

出エジプト記 21:22-25

ハンムラビ法典みたいだ!
そっか、命には命で償うのか…。そしたら殺人即ち死刑になるのかな…。
あ、でも新約聖書でイエスがこの戒めについて言及していましたね。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

マタイによる福音書 5:38-42

旧約聖書新約聖書が矛盾しているようにも読めますが、「自分が罪を犯す時には報いを受けることを覚悟しなさい。自分に罪を犯す人がいたなら、神があなたの罪を赦したようにあなたもその人を赦しなさい。」ということを言っているのかなと思いました。
まぁ、罪を犯すのも犯されるのも避けたいものですが!!