キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年3月1日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日読んだ箇所から↓

そこでモーセイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、「主にむかってわたしは歌おう、彼は輝かしくも勝ちを得られた、彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。主はわたしの力また歌、わたしの救となられた、彼こそわたしの神、わたしは彼をたたえる、彼はわたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
主はいくさびと、その名は主。彼はパロの戦車とその軍勢とを海に投げ込まれた、そのすぐれた指揮者たちは紅海に沈んだ。大水は彼らをおおい、彼らは石のように淵に下った。主よ、あなたの右の手は力をもって栄光にかがやく、主よ、あなたの右の手は敵を打ち砕く。あなたは大いなる威光をもって、あなたに立ちむかう者を打ち破られた。あなたが怒りを発せられると、彼らは、わらのように焼きつくされた。あなたの鼻の息によって水は積みかさなり、流れは堤となって立ち、大水は海のもなかに凝り固まった。

出エジプト記 15:1-8

エジプトを出ることができたイスラエル人たちは神様を讃える歌を歌い始めました!
この部分、オリジナルの言語だと韻を踏んでいたりするのかしら?日本語でも、神様の御業がポエティックに描かれていますね。
それにしても、大きな喜びを受けると人って歌い始めるものですよね。私もこれくらい素直な気持ちで歌いてぇです。

敵は言った、『わたしは追い行き、追い着いて、分捕物を分かち取ろう、わたしの欲望を彼らによって満たそう、つるぎを抜こう、わたしの手は彼らを滅ぼそう』。あなたが息を吹かれると、海は彼らをおおい、彼らは鉛のように、大水の中に沈んだ。主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、ほむべくして恐るべきもの、くすしきわざを行うものであろうか。
あなたが右の手を伸べられると、地は彼らをのんだ。あなたは、あがなわれた民を恵みをもって導き、み力をもって、あなたの聖なるすまいに伴われた。もろもろの民は聞いて震え、ペリシテの住民は苦しみに襲われた。エドムの族長らは、おどろき、モアブの首長らは、わななき、カナンの住民は、みな溶け去った。恐れと、おののきとは彼らに臨み、み腕の大いなるゆえに、彼らは石のように黙した、主よ、あなたの民の通りすぎるまで、あなたが買いとられた民の通りすぎるまで。
あなたは彼らを導いて、あなたの嗣業の山に植えられる。主よ、これこそあなたのすまいとして、みずから造られた所、主よ、み手によって建てられた聖所。主は永遠に統べ治められる」。

出エジプト記 15:9-18

歌の続きです↑
そうか、神様はご自分の民を自らの欲望のために攻撃する異邦人から守っていたんだな。この世のもののためではなく神様のために生きることは、困難が付き物ですもんね。
その中で神様を一番大切にする人が、神様から顧みられるのかしら。イスラエル人は神様を大切にしたからこそ神様に守られた安住の地に導かれたのだなぁ。
この箇所に出てくる氏族の名前が気になったので今まで読んだ箇所から探してみたら、ペリシテはノアの息子、ハムから出た氏族みたいです。イサクが住んでいた時に大きな富を築いたしまったもんで隣近所から恨まれてしまい、井戸を埋められちゃったのはペリシテ人の地でした。
エドムはイサクの子でありヤコブに長子の権利を譲った兄のエサウから出た氏族、モアブはソドムとゴモラの災害の後ロトと娘との間に生まれた子、モアブから出た氏族、カナンはノアの孫、カナンから出た氏族みたいです。カナンは酔っ払って裸になった父親を他の兄弟に見せびらかし、父親に「カナンは呪われよ。」なんて言われちゃったあのカナンです。
たまに振り返ると、サイドキャラクターの子孫たちもちゃんと登場しているんですねぇ。全部覚えていられる頭は持っていませんが…。

さて、モーセイスラエルを紅海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野に入り、三日のあいだ荒野を歩いたが、水を得なかった。彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。その所で主は民のために定めと、おきてを立てられ、彼らを試みて、言われた、「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い、その目に正しいと見られることを行い、その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば、わたしは、かつてエジプトびとに下した病を一つもあなたに下さないであろう。わたしは主であって、あなたをいやすものである」。

出エジプト記 15:22-26

エジプトを出た後も、神様は御業を働かせていますね(*'ω'*)
神様の「定め」と「おきて」と聞くと堅苦しいイメージがありますが、例えば人が子どもに対して「赤信号を渡っちゃダメだよ。」とか「外から帰ったら手洗いうがいをするんだよ。」と言うような、子どもを危険から守るための言葉と同じなのではとふと思いました。
神様が人から遠ざけるべきと考える「危険」は人が天国に行くことができず、魂が永遠に失われることだと思います。
こんなこと書くと、怖いですけどね。