キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2019年2月22日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

忘れるところだったぁ!!
日付変わりまして、昨日読んだ箇所から↓

主はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」。神はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主である』と」。モーセはこのようにイスラエルの人々に語ったが、彼らは心の痛みと、きびしい奴隷の務のゆえに、モーセに聞き従わなかった。

出エジプト記 6:1-9

クリスチャンはよく神様のことを「主」と呼びますが、神様はモーセに対して始めて「主」と名乗ったのですね!
「主」の意味を改めて考えると、神様は世界の全てを創った創造「主」であり、世界の全てを御手の中に置く「主」でもあり、クリスチャンが僕として仕える「主」でもあることを表しているのですね。
そんな神様はモーセの先祖とした契約を思い出し、その契約の地までモーセたちを導いてくれるようです。
こんな風に正しく、義なる方だから、私は神様に仕えようと思えるのだと思います。

この後は何やら家系図が連なっていてストーリーが進まなかったのでもう一章読みました。
家系図にもきっと大事な意味があるのでしょうけど、聖書初心者の私には難しいです_(:3 」∠)_

主はモーセに言われた、「わたしは主である。わたしがあなたに語ることは、みなエジプトの王パロに語りなさい」。しかしモーセは主にむかって言った、「ごらんのとおり、わたしは、くちびるに割礼のない者です。パロがどうしてわたしの言うことを聞きいれましょうか」。
主はモーセに言われた、「見よ、わたしはあなたをパロに対して神のごときものとする。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう。あなたはわたしが命じることを、ことごとく彼に告げなければならない。そしてあなたの兄弟アロンはパロに告げて、イスラエルの人々をその国から去らせるようにさせなければならない。しかし、わたしはパロの心をかたくなにするので、わたしのしるしと不思議をエジプトの国に多く行っても、パロはあなたがたの言うことを聞かないであろう。それでわたしは手をエジプトの上に加え、大いなるさばきをくだして、わたしの軍団、わたしの民イスラエルの人々を、エジプトの国から導き出すであろう。わたしが手をエジプトの上にさし伸べて、イスラエルの人々を彼らのうちから導き出す時、エジプトびとはわたしが主であることを知るようになるであろう」。

出エジプト記 6:29 - 7:5

モーセをもう一度パロの元に行かせるのに、神様はパロの心を頑なにしちゃうんですね…。
パロの心を柔らかくしてさっさとモーセ達をエジプトから連れ出してあげたらいいのに、と思わなくもないですが、きっとエジプトの人々に神様を知らせるために必要なのでしょうね。

それで、モーセとアロンはパロのところに行き、主の命じられたとおりにおこなった。すなわちアロンはそのつえを、パロとその家来たちの前に投げると、それはへびになった。そこでパロもまた知者と魔法使を召し寄せた。これらのエジプトの魔術師らもまた、その秘術をもって同じように行った。すなわち彼らは、おのおのそのつえを投げたが、それらはへびになった。しかし、アロンのつえは彼らのつえを、のみつくした。けれども、パロの心はかたくなになって、主の言われたように、彼らの言うことを聞かなかった。

出エジプト記 7:10-13

あらあら、神様の印がエジプトの魔術師たちに真似されてしまいました…。たしかに、奇術の技術を使えば似たようなことはできそうですもんね…。
アロンの杖が他の杖を呑み込んだのはタネも仕掛けもなく変化した蛇だったからかしら。
あるいは、神様の威光を表すためかしら。

モーセとアロンは主の命じられたようにおこなった。すなわち、彼はパロとその家来たちの目の前で、つえをあげてナイル川の水を打つと、川の水は、ことごとく血に変った。それで川の魚は死に、川は臭くなり、エジプトびとは川の水を飲むことができなくなった。そしてエジプト全国にわたって血があった。エジプトの魔術師らも秘術をもって同じようにおこなった。しかし、主の言われたように、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。パロは身をめぐらして家に入り、またこのことをも心に留めなかった。すべてのエジプトびとはナイル川の水が飲めなかったので、飲む水を得ようと、川のまわりを掘った。主がナイル川を打たれてのち七日を経た。

出エジプト記 7:20-25

これ、エジプトの民に深刻な被害が出ていると思うのですが、それでも心を頑ななままにするパロは大分冷酷で愚かな君主ですね…。
「エジプトはナイルのたまもの」という言葉があるくらいだから、エジプトの民はナイル川の水を頼って生きているのだろうに、パロはナイル川の惨状を無視して籠ってしまうなんて…。
どうしたらパロの心は柔らかくなって、モーセたちはエジプトから出られるようになるのかしら?