キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2018年12月25日デボーション

 

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

今朝読んだ箇所から↓

またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、「全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります」。

ヨハネの黙示録 15:2-4

サタンに打ち勝った人々が神様を讃えていますね。
最近読む箇所は神様が地上に災害を与える場面が多いですが、それは神様が義なる存在で、神様から離れることはそれほど大きな裁きを受けるほどの罪だということだと思います。
神様の元に戻ってきた人は安らかな場所で守られることになります。

それから、大きな声が聖所から出て、七人の御使にむかい、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と言うのを聞いた。

ヨハネの黙示録 16:1

全部引用すると長くなるので省略しますが、七つの鉢によって病や干ばつ、大火、雷、地震などの災害が地上の人々を襲います。
しかし、神様の裁きを受けても人々は神様の元に戻ってくることはありませんでした。

人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。

ヨハネの黙示録 16:9

その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。

ヨハネの黙示録 16:11

でもこれは、人として普通の反応だとも思います。
悲惨な状況に直面した時に神様を疑ったり神様を憎むのは自然な心の動きだと私は思うのです。

なんか、クリスマスの日に神様の裁きについてばかり書くのはアレなので、神様の愛を感じられる箇所を一つ引用します。
私がクリスチャンになったばかりの頃に出会ったお気に入りの箇所です(`・ω・´)

あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。

マタイによる福音書 18:12-1