キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2018年11月30日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

いけないいけない、デボーションを投稿するの忘れてました…。
今朝読んだ箇所から↓

 

おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。

ヘブル人への手紙 8:3-7

 

クリスチャンでない人から見るとイエス・キリストユダヤ人たちの信仰が誤っていたのでそれを正そうとした、という風に見えるかもしれませんが、当時のユダヤ人たちは神様との「旧」い「約」束を守っていただけなんよね。
エスがもたらした「新」しい「約」束は救いをユダヤ人以外にも広げました。ありがてえです。

 

こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。

ヘブル人への手紙 10:11-14