2020年3月5日デボーション
朝に聖書を読んで夜にデボーション投稿する、そんな日常です。
モルデカイはすべてこのなされたことを知ったとき、その衣を裂き、荒布をまとい、灰をかぶり、町の中へ行って大声をあげ、激しく叫んで、
王の門の入口まで行った。荒布をまとっては王の門の内にはいることができないからである。
すべて王の命令と詔をうけ取った各州ではユダヤ人のうちに大いなる悲しみがあり、断食、嘆き、叫びが起り、また荒布をまとい、灰の上に座する者が多かった。
エステルの侍女たちおよび侍従たちがきて、この事を告げたので、王妃は非常に悲しみ、モルデカイに着物を贈り、それを着せて、荒布を脱がせようとしたが受けなかった。
エステル記 4章1-4節
モルデカイの怒りと悲しみは激しそうです。そりゃそうですね。
そういえばこの時のエルサレムはペルシャの統治下にあったはずですが、ユダヤの神殿があるエルサレムでもユダヤ人虐殺が行われる予定だったのかしら?
バビロン帝国から解放されてすぐにそりゃないぜ!
モルデカイは自分の身に起ったすべての事を彼に告げ、かつハマンがユダヤ人を滅ぼすことのために王の金庫に量り入れると約束した銀の正確な額を告げた。
また彼らを滅ぼさせるために、スサで発布された詔書の写しを彼にわたし、それをエステルに見せ、かつ説きあかし、彼女が王のもとへ行ってその民のために王のあわれみを請い、王の前に願い求めるように彼女に言い伝えよと言った。
エステル記 4章7-8節
モルデカイはエステルに助けを求めました!
エステルはどうする…?
エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、
「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。
エステル記 4章10-11節
王妃の身分であっても、王の元へ自由に行ける訳ではないのかぁ。
ペルシャ王、気難しすぎやしませんか?
モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。
エステル記 4章13-14
ドキッとするモルデカイの言葉…。
「自分だけは大丈夫」と思って身近な人の危機を無視しようとすること、私にもある気がする。
いや、命の危機みたいな重大なものは滅多に無いのですが…。
そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、
「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。
モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。
エステル記 4章15-17節
エステルは命の危険を犯して、ユダヤの人々を助けるために動き出しました。
私にここまでのことができるだろうか?
きっと、エステルと同じような状況になったら信仰より自分の命を優先させてしまうかもしれない。
…それとは関係なく踏み絵を踏まされそうになったら「イエス様はもっとイケメンだろうがー!」と思いっきり踏みつけそうですが_(:3 」∠)_
2020年3月4日デボーション
忘れるところでした!
ちゃんと朝に読んでいたのですが、日付変わっちゃいました_(:3 」∠)_
これらの事の後、アハシュエロス王はアガグびとハンメダタの子ハマンを重んじ、これを昇進させて、自分と共にいるすべての大臣たちの上にその席を定めさせた。
王の門の内にいる王の侍臣たちは皆ひざまずいてハマンに敬礼した。これは王が彼についてこうすることを命じたからである。しかしモルデカイはひざまずかず、また敬礼しなかった。
そこで王の門にいる王の侍臣たちはモルデカイにむかって、「あなたはどうして王の命令にそむくのか」と言った。
彼らは毎日モルデカイにこう言うけれども聞きいれなかったので、その事がゆるされるかどうかを見ようと、これをハマンに告げた。なぜならモルデカイはすでに自分のユダヤ人であることを彼らに語ったからである。
エステル記 3章1-4節
モルデカイは自分が信仰する神以外には膝まずきたくなかったのかな。
同じ信仰を持たない人から見れば、モルデカイの行動が国への反逆に見えても仕方ないのかも。
パウロも「信仰者は信仰を持たない人から見れば狂っているように見える」的なことを書いていたような気がするし。
ハマンはモルデカイのひざまずかず、また自分に敬礼しないのを見て怒りに満たされたが、
ただモルデカイだけを殺すことを潔しとしなかった。彼らがモルデカイの属する民をハマンに知らせたので、ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの属する民をことごとく滅ぼそうと図った。
エステル記 3章5-6節
おおう…。怒りが有り余って民族ごと八つ当たりするのですね…。
自分に膝まずかない人が居たからってそんなに怒る感覚も分からないけど_(:3 」∠)_
そしてハマンはアハシュエロス王に言った、「お国の各州にいる諸民のうちに、散らされて、別れ別れになっている一つの民がいます。その法律は他のすべての民のものと異なり、また彼らは王の法律を守りません。それゆえ彼らを許しておくことは王のためになりません。
エステル記 3章8節
クリスチャンもこんな風に思われているのかしら…?
自分の信仰を守りつつ、平和に暮らしたいだけなんだけどなぁ。
君が代を歌うのを拒否するクリスチャンは居るかもだけど。
そして急使をもってその書を王の諸州に送り、十二月すなわちアダルの月の十三日に、一日のうちにすべてのユダヤ人を、若い者、老いた者、子供、女の別なく、ことごとく滅ぼし、殺し、絶やし、かつその貨財を奪い取れと命じた。
エステル記 3章13節
この節見て、なんか織田信長を思い出しました_(:3 」∠)_
自分の感情をコントロールできない人がトップに居ると、いつの時代も大変だねぇ。
年齢や性別を問わず命を奪う上に財産も奪うとは、ゲスい…。
急使は王の命令により急いで出ていった。この詔は首都スサで発布された。時に王とハマンは座して酒を飲んでいたが、スサの都はあわて惑った。
エステル記 3章15節
アハシュエロス王と同じようなことをしている方がどこかの国の首相にいらっしゃったような((←
よくよく考えるとハマンを重用したように、お友達を優遇しているところも似ていr…
おっと、こんな時間に誰か来たようだ。
2020年3月3日デボーション
はてなブログ的におはようございます( ´ ▽ ` )ノ
今日はエステル記の2章を読みました!
これらのことの後、アハシュエロス王の怒りがとけ、王はワシテおよび彼女のしたこと、また彼女に対して定めたことを思い起した。
時に王に仕える侍臣たちは言った、「美しい若い処女たちを王のために尋ね求めましょう。
どうぞ王はこの国の各州において役人を選び、美しい若い処女をことごとく首都スサにある婦人の居室に集めさせ、婦人をつかさどる王の侍従ヘガイの管理のもとにおいて、化粧のための品々を彼らに与えてください。
こうして御意にかなうおとめをとって、ワシテの代りに王妃としてください」。王はこの事をよしとし、そのように行った。
エステル記 2章1-4節
アハシュエロス王はワシテを追い出したことを後悔していたのかしら?
それにしても「美しい若い処女」という言葉のなんとも気色悪い響きはなんだろう?
さて首都スサにひとりのユダヤ人がいた。名をモルデカイといい、キシのひこ、シメイの孫、ヤイルの子で、ベニヤミンびとであった。
彼はバビロンの王ネブカデネザルが捕えていったユダの王エコニヤと共に捕えられていった捕虜のひとりで、エルサレムから捕え移された者である。
彼はそのおじの娘ハダッサすなわちエステルを養い育てた。彼女には父も母もなかったからである。このおとめは美しく、かわいらしかったが、その父母の死後、モルデカイは彼女を引きとって自分の娘としたのである。
エステル記 2章5-7節
バビロン捕囚が終わった後も元の場所に戻れなかったユダヤ人が居たんだなぁ…。
そしていよいよエステルの登場です(`・ω・´)
エステルもアハシュエロス王の王妃候補として王宮へ連れて行かれてしまいます…。
エステルは自分の民のことをも、自分の同族のことをも人に知らせなかった。モルデカイがこれを知らすなと彼女に命じたからである。
モルデカイはエステルの様子および彼女がどうしているかを知ろうと、毎日婦人の居室の庭の前を歩いた。
エステル記 2章10-11節
エステルとモルデカイの関係性が感じられて好きな箇所です。
エステルを心配するモルデカイを想像するとなんか可愛い。
さてモルデカイのおじアビハイルの娘、すなわちモルデカイが引きとって自分の娘としたエステルが王の所へ行く順番となったが、彼女は婦人をつかさどる王の侍従ヘガイが勧めた物のほか何をも求めなかった。エステルはすべて彼女を見る者に喜ばれた。
エステルがアハシュエロス王に召されて王宮へ行ったのは、その治世の第七年の十月、すなわちテベテの月であった。
王はすべての婦人にまさってエステルを愛したので、彼女はすべての処女にまさって王の前に恵みといつくしみとを得た。王はついに王妃の冠を彼女の頭にいただかせ、ワシテに代って王妃とした。
そして王は大いなる酒宴を催して、すべての大臣と侍臣をもてなした。エステルの酒宴がこれである。また諸州に免税を行い、王の大きな度量にしたがって贈り物を与えた。
エステル記 2章15-18節
顔で選抜されたエステルだったけれど、謙虚な性格も王に評価されたのかしら。
人間性を一切見てもらえずに顔だけで王妃に選ばれたとしたらエステルがかわいそう_(:3 」∠)_
国を挙げてエステルの即位を祝っているようだけれど、この時前の王妃のワシテはどうしてたんだろう?
そのころ、モルデカイが王の門にすわっていた時、王の侍従で、王のへやの戸を守る者のうちのビグタンとテレシのふたりが怒りのあまりアハシュエロス王を殺そうとねらっていたが、
その事がモルデカイに知れたので、彼はこれを王妃エステルに告げ、エステルはこれをモルデカイの名をもって王に告げた。
その事が調べられて、それに相違ないことがあらわれたので、彼らふたりは木にかけられた。この事は王の前で日誌の書にかきしるされた。
エステル記 2章21-23節
ビグタンとテレシはワシテの関係者かしら?
それともアハシュエロス王は単に人望が無かったのかしら?
モルデカイはエステルが王宮に入ってどう思ったんだろう?
寂しくなかったのかしら?
2020年3月2日デボーション
お久しぶりのデボーション投稿でございます(`_´)ゞ
今日からエステル記に入ったということで、キリの良いところから再開したいと思います。
ちなみに今日読んだ箇所には主人公、エステルは登場しません!残念!
アハシュエロスすなわちインドからエチオピヤまで百二十七州を治めたアハシュエロスの世、
アハシュエロス王が首都スサで、その国の位に座していたころ、
その治世の第三年に、彼はその大臣および侍臣たちのために酒宴を設けた。ペルシャとメデアの将軍および貴族ならびに諸州の大臣たちがその前にいた。
その時、王はその盛んな国の富と、その王威の輝きと、はなやかさを示して多くの日を重ね、百八十日に及んだ。
これらの日が終った時、王は王の宮殿の園の庭で、首都スサにいる大小のすべての民のために七日の間、酒宴を設けた。
エステル記 1章1-5節
いきなりアケメネス朝ペルシャから物語は始まります。
アケメネス朝ペルシャがバビロン帝国を滅ぼしたことでユダヤの人々はバビロン捕囚から解放されたんだっけな。
ペルシャ、なんか豊かそうな国です。
王妃ワシテもまたアハシュエロス王に属する王宮の内で女たちのために酒宴を設けた。
七日目にアハシュエロス王は酒のために心が楽しくなり、王の前に仕える七人の侍従メホマン、ビズタ、ハルボナ、ビグタ、アバグタ、ゼタルおよびカルカスに命じて、
王妃ワシテに王妃の冠をかぶらせて王の前にこさせよと言った。これは彼女が美しかったので、その美しさを民らと大臣たちに見せるためであった。
ところが、王妃ワシテは侍従が伝えた王の命令に従って来ることを拒んだので、王は大いに憤り、その怒りが彼の内に燃えた。
エステル記 1章9-12節
酔っ払いに呼び出されて、しかも見せ物にされるのは王妃ワシテも嫌だったでしょうね!!
逆ギレしたアハシュエロス王はどうするのでしょ?
そこで王は時を知っている知者に言った、――王はすべて法律と審判に通じている者に相談するのを常とした。
エステル記 1章13節
アハシュエロス王は遵法主義だったんですねぇ。
…ん?
「王妃ワシテは、アハシュエロス王が侍従をもって伝えた命令を行わないゆえ、法律に従って彼女にどうしたらよかろうか」。
メムカンは王と大臣たちの前で言った、「王妃ワシテはただ王にむかって悪い事をしたばかりでなく、すべての大臣およびアハシュエロス王の各州のすべての民にむかってもしたのです。
エステル記 1章15-16節
もし王がよしとされるならば、ワシテはこの後、再びアハシュエロス王の前にきてはならないという王の命令を下し、これをペルシャとメデアの法律の中に書きいれて変ることのないようにし、そして王妃の位を彼女にまさる他の者に与えなさい。
王の下される詔がこの大きな国にあまねく告げ示されるとき、妻たる者はことごとく、その夫を高下の別なく共に敬うようになるでしょう」。
エステル記 1章19-20節
遵法主義というか、自分で法律を作っちゃう感じなんですね。
ワシテ王妃は酔っ払いの誘いを断っただけで王妃の位を剥奪されるようです。
世が世なら#MeToo案件!!
王と大臣たちはこの言葉をよしとしたので、王はメムカンの言葉のとおりに行った。
王は王の諸州にあまねく書を送り、各州にはその文字にしたがい、各民族にはその言語にしたがって書き送り、すべて男子たる者はその家の主となるべきこと、また自分の民の言語を用いて語るべきことをさとした。
エステル記 1章21-22節
「妻は夫に従うべき」みたいな言葉、新約聖書にもありましたけれども、個人的にはその後に夫への戒めが妻への戒め以上に書かれていることを主張してぇです。
妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。
そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。
夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。
自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。
エペソ人への手紙 5章22-29節
ペルシャでは夫が敬われるのと同じくらい、妻が愛されていただろうか?
「不必要」って何?
ブログではお久しぶりです。
毎朝、聖書を読み続けてはいるのですが、ブログには書かずにいる現状です。
ちなみに今は『エズラ記』を読んでいます。
少しずつ読み進めているのでいつかまたデボーションを投稿したいです。
さて、デボーション投稿をほったらかして何を書きたいのかといいますと、現在裁判が行われているとある事件についてです。
その事件では19人の命が一夜にして奪われました。
被告はその19人、重度障碍者たちについて「社会に必要ない」「不幸しか生まない」と言いました。
この狂った考えがこの人だけのものであればまだ良かった。
事件の後、被告の考えに共感する人が少なからずいることも明らかになりました。
はてなハイクの最後の日に明かしたように、私はサークルやアルバイトで「障碍者」と呼ばれる人たちと関わっています。
この事件の第一報を聞いて最初に感じたのは、多くの命が失われたことに対する胸が裂けそうなほどの悲しみでした。
事件の概要が明らかになるにつれ頭を占めたのは「自分が知っている人たちに直接大きな憎しみを向けられるかもしれない」という恐れでした。
実際に「重度障碍者だから」という理由で19人もの命を奪った人が居たのですから、私の不安は的外れなものではないはずです。
裁判に関するニュースや記事を見るたび、重いものが頭の上からのしかかるように苦しいです。
被告の言葉一つ一つに恐怖感を覚えます。
被告の言葉は確実に、私がサークルやアルバイトで関わる人たちに向けられています。
ただ、恐怖感の原因はそれだけでない気もしています。
私は大学に入るまでいわゆる「障碍者」とはほとんど関わりがありませんでした。
彼らがどのように暮らし、何を楽しみにして、何を考えて生きているのか、何も知りませんでした。
私がもし今所属しているサークルやアルバイトに出会っていなかったら、被告と同じように「障碍者は社会に必要だろうか?」と考えていたかもしれません。
そのような考えを恥ずかしげもなく披露していたかもしれません。
そんな有り得たかもしれない自分の姿が恐ろしいのです。
もう一つ恐ろしいのは、人間を「必要」「不必要」の二種類に分類しようとする社会の流れです。
私自身が「社会」から「不必要」とされることに恐れています。
そもそも「社会に必要」「社会に不必要」とは何なんでしょうか?
人が作ったものは全て、いずれ朽ちてこの世から失われるのに。
お金など普遍的価値があるように見えるものも、すこし情勢が変われば無価値になるのに。
「社会に必要」「社会に不必要」という物差しが如何に愚かであるか、被告にはわからないのでしょうか?
「社会に不必要」とレッテルを貼られた人たちの悲しみが分からないのでしょうか?
裁判では被害者家族たちの悲痛な心境も明らかになっています。
ただ、いくら感情をこめて被害者家族が言葉を紡いでも、被告には届いていないようです。
「障碍者は社会に不必要」という自らの考えを固持しているようです。
この事件は被告に死刑を言い渡した時点で終わらせてはいけない気がします。
人が他人を選別することの愚かさ、残酷さを被告に思い知らせなければなりません。
誰もが「社会に必要」か「社会に不必要」か判断されるべきではないことを世の中に広めなければなりません。
辛くなってきたので楽しいことを書きます。
被告は「重度障碍者はコミュニケーションができない」なんて言っていましたが、私は全く反対します。
コミュニケーションはよくキャッチボールに例えられますが、「障碍者」とのコミュニケーションはこちらのボールを受け取ってもらえなかったり、向こうから一方的にボールを投げつけられたりする時もあります。
そもそもボールを投げてこない人、ボールを投げたか分かりにくい人もいます。
そんなキャッチボールでも、私は楽しんでいます。
ボールをどうにか受け取ってうまく投げ返せたときの喜び、
ボールを投げ返せなくても互いに笑いあった時間、
月並みな表現ですが、それらは私にとって尊い宝物です。
一緒にボールを投げあった彼らの一人一人が、私にとって大切な存在です。
彼らは大切なことを私に教えてくれます。
私には些細なことに見えるものに対しても、彼らは大きく感情を動かします。
彼らの価値観は多種多様で、それぞれユニークなスコープを持っているようです。
そんな彼らと関わる中で、私も自分のスコープを大事にするようになりました。
自分自身も価値ある存在なんだと気づくようになりました。
一方で彼らの自由な価値観を脅かす「社会通念」のようなものにも気づくようになりました。
その一つが被告の言う「重度障碍者は社会に不必要」というものです。
私は被告を赦せません。
その人は19人の命を独善的な理由で奪いました。
19人の人生や人格を全否定しました。
その独善的な考えを世の中に広めました。
勝手に「社会に不必要」と判断される恐怖を多くの人に与えました。
私は被告を赦せません。
裁判の中で正しい判断が行われますように。
被害者の家族が伝えたいことを全て被告に伝えられますように。
被告の独善的な考えが改められますように。
19人の魂が安らかな場所にありますように。
アーメン。
ではでは、また気が向いた時にブログを書きます。
さいなら。
ポールが今日も元気でめでたい
お久しぶりです。
学業やらサークルやら就活やら資格取得やらで忙しくしていて随分ブログをご無沙汰していました…。
ブログには書いていませんが聖書はちゃんと読み進めていて、今は申命記を読んでおります。
さて、一昨日はポール・マッカートニーの誕生日でございました!
なんと77歳!喜寿!喜ばしい!めでたい!ハッピー!!イエー!!
2日経ちましたがまだ喜びが心の中を満たしております♪
一昨日はサークル会議があったのですが、部屋に入った瞬間"Got To Get You Into My Life"を歌いながらくるくる回ってしまい、メンバー達にドン引きされました(笑)
こんなに私が喜んでいるのは大好きな人の誕生日だからだけではありません。
丁度私が大学に入学した年、ポールが日本に来てくれました。
私はもちろんチケットを買い、父と一緒に国立競技場に向かいました。
しかし私達が観るはずだった公演の前日にポールは体調を崩し、日本で予定していた全ての公演、そしてその後の韓国での公演もキャンセルになってしまいました。
私は落胆しました。
そして、ポールのことがとても心配になりました。
このままポールが死んでしまうんじゃないか、と不安に襲われました。
私はその当時まだクリスチャンではありませんでしたがキリスト教には出会っていたので、半年間ポールのために祈り続けました。
祈りは聞かれてポールの体調は回復し、翌年また日本に来てくれました。
ポールはそれからずっと元気に歌を歌い続けてくれています。
そして一昨日、めでたく喜寿を迎えました。
こんなに嬉しいことはないです!!!
荒んでいた中学時代から今まで、私の人生の中にポールが居てくれて、本当に幸せです。
それではお聴きください、the Beatlesの"Got To Get You Into My Life"!!
Soooooo Happy Birthday, Sir James Paul McCartney!!!
2019年3月27日〜29日デボーション
はてなハイクが終わってしまって、気が抜けていました…。
一昨日、昨日、今朝読んだ箇所を引用しつつ紹介します。
主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたのうちだれでも家畜の供え物を主にささげるときは、牛または羊を供え物としてささげなければならない。もしその供え物が牛の燔祭であるならば、雄牛の全きものをささげなければならない。会見の幕屋の入口で、主の前に受け入れられるように、これをささげなければならない。彼はその燔祭の獣の頭に手を置かなければならない。そうすれば受け入れられて、彼のためにあがないとなるであろう。
レビ記 1:1-4
レビ記はこんな感じで捧げものの仕方について書かれているみたいです。
この燔祭は時に神様の恵みを感謝し、賛美し、罪を贖ったり、願い事をするために行われていたようです。
「なんで牛を丸々一頭…」と思わなくもないですが、そもそもその牛も神様から与えられた恵みなんですよね。
たくさんもらった恵みの一部を感謝して返す、と考えたら自然な行為のような気もします。私は。
彼は主の前でその子牛をほふり、アロンの子なる祭司たちは、その血を携えてきて、会見の幕屋の入口にある祭壇の周囲に、その血を注ぎかけなければならない。彼はまたその燔祭の獣の皮をはぎ、節々に切り分かたなければならない。祭司アロンの子たちは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを並べ、アロンの子なる祭司たちはその切り分けたものを、頭および脂肪と共に、祭壇の上にある火の上のたきぎの上に並べなければならない。その内臓と足とは水で洗わなければならない。こうして祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
レビ記 1:5-9
屠る…血…内臓…。うむむ、なんかグロい…。
モーセたちが生きていた時代は、こうやって死が身近だったんだなぁ…。
人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。
レビ記 2:1-3
素祭は神様に感謝して、燔祭の供え物と共に麦粉と油を混ぜたものを神様に捧げたことを言うそうです。
残ったものは祭司が食べられるのですねぇ。美味しそう…。
もし彼の供え物が酬恩祭の犠牲であって、牛をささげるのであれば、雌雄いずれであっても、全きものを主の前にささげなければならない。彼はその供え物の頭に手を置き、会見の幕屋の入口で、これをほふらなければならない。そしてアロンの子なる祭司たちは、その血を祭壇の周囲に注ぎかけなければならない。彼はまたその酬恩祭の犠牲のうちから火祭を主にささげなければならない。すなわち内臓をおおう脂肪と、内臓の上のすべての脂肪、二つの腎臓とその上の腰のあたりにある脂肪、ならびに腎臓と共にとられる肝臓の上の小葉である。
レビ記 3:1-4
今度は「酬恩祭」ですね!神様の恵みに感謝し、神様との関係を確かにするために行われたそうです。
ここでも血を注いだり、内臓を乗り出さないといけないのですね…。
祭司はこれを祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭としてささげる食物であって、香ばしいかおりである。脂肪はみな主に帰すべきものである。あなたがたは脂肪と血とをいっさい食べてはならない。これはあなたがたが、すべてその住む所で、代々守るべき永久の定めである』」。
レビ記 3:16-17
あ、酬恩祭の捧げ物は食べられないのね…。いや、脂肪と血は食べてはいけないだけでお肉はいいのかしら?
あと、繰り返される「主に捧げる香ばしい香り」という表現が好きです。
私も香ばしい香りを放ちたいですねぇ…(火で焼かれたい訳ではないですよ)。
主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『もし人があやまって罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをした時は次のようにしなければならない。すなわち、油注がれた祭司が罪を犯して、とがを民に及ぼすならば、彼はその犯した罪のために雄の全き子牛を罪祭として主にささげなければならない。
レビ記 4:1-3
今度は罪祭ですね。罪を贖うために家畜を捧げることのようです。
祭司は牛一頭、イスラエルの会衆全体の場合も牛一頭、支配者の場合は雄ヤギ一頭、一般の人の場合は雌ヤギ一頭を捧げなければならなかったようです。
ではでは、どんな罪を犯したら罪祭を行わなければならないのでしょうか?
もし人が証人に立ち、誓いの声を聞きながら、その見たこと、知っていることを言わないで、罪を犯すならば、彼はそのとがを負わなければならない。また、もし人が汚れた野獣の死体、汚れた家畜の死体、汚れた這うものの死体など、すべて汚れたものに触れるならば、そのことに気づかなくても、彼は汚れたものとなって、とがを得る。また、もし彼が人の汚れに触れるならば、その人の汚れが、どのような汚れであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、とがを得る。また、もし人がみだりにくちびるで誓い、悪をなそう、または善をなそうと言うならば、その人が誓ってみだりに言ったことは、それがどんなことであれ、それに気づかなくても、彼がこれを知るようになった時は、これらの一つについて、とがを得る。
レビ記 5:1-4
あー、罪犯してるなぁー。雌ヤギ捧げなきゃだわー。
特に偽証の罪は犯してしまっている気がします…。世間体を気にしてとは言え、友人について本当は思ってないことを言ってしまうこともあって…私は罪深いです…。
「もし人が不正をなし、あやまって主の聖なる物について罪を犯したときは、その償いとして、あなたの値積りにしたがい、聖所のシケルで、銀数シケルに当る雄羊の全きものを、群れのうちから取り、それを主に携えてきて、愆祭としなければならない。そしてその聖なる物について犯した罪のために償いをし、またその五分の一をこれに加えて、祭司に渡さなければならない。こうして祭司がその愆祭の雄羊をもって、彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。また人がもし罪を犯し、主のいましめにそむいて、してはならないことの一つをしたときは、たといそれを知らなくても、彼は罪を得、そのとがを負わなければならない。彼はあなたの値積りにしたがって、雄羊の全きものを群れのうちから取り、愆祭としてこれを祭司のもとに携えてこなければならない。こうして、祭司が彼のために、すなわち彼が知らないで、しかもあやまって犯した過失のために、あがないをするならば、彼はゆるされるであろう。
レビ記 5:15-18
罪を贖う捧げ物にはもう一つのパターンがあるみたいですね。
「彼のためにあがないをするならば、彼はゆるされるであろう。」とありますが、この究極のものがイエスが十字架にかかったことなんですよね…。
参考文献↓