キンモクセイの何か

ブログに書くほどのことではありませんが、日々起こったことや思うことをつらつらと

2018年12月6日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。

ペテロの第一の手紙 3:8-9

悪に対して悪の方法で対抗したら、悪が増えるだけですものね。
悪に対して愛の方法で向かえば、神様が正しく裁いてくれると私は信じています。
口先で言うのは簡単ですが…。

しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。善をおこなって苦しむことは――それが神の御旨であれば――悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。

ペテロの第一の手紙 3:16-17

クリスチャンでなくとも正しいことを行なっているのに誤解を受けたり誰かの反感を買ったりして弁明が必要になる時ってありますよね。あるいはそもそも弁明する機会が与えられない時も…。
クリスチャン的な生き方は時にこの世で善とされていることと逆行することがあって、それが時々苦しくもあるのですが、神様が正しいとされる行いをしていきたいです(`・ω・´)

万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。

ペテロの第一の手紙 4:7-8

祈りと愛、大事(`・ω・´)

2018年12月5日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今日からペテロの手紙に入りました(`・ω・´)
今朝読んだ箇所から↓

それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。

ペテロの第一の手紙 1:13-15

あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。

ペテロの第一の手紙 1:22-23

私はクリスチャンになってもこの世の富や栄誉を求めがちなので気をつけねばと思っています_(:3 」∠)_
「聖なる者」とはかなり大層な響きですが、イエスの姿に近づけるように努めます(`・ω・´)

聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。

ペテロの第一の手紙 2:6-8

普段生活する中でなんとなく感じることですね…。
クリスチャンでない方にはクリスチャンの生活が縛られているものに感じるかもしれません。
もっと言うと、目に見えないものに依り頼む姿が滑稽に見えるかもしれません。
でも少なくとも私の場合は、クリスチャンになってからの方が楽で自由に生きられている気がします。

2018年12月4日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

ヤコブの手紙 4:1-3

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。

ヤコブの手紙 4:8

今私が求めるものが神様の御心にかなうものでありますように…。
自分の欲のためではなく神様の望みのために生きたいです。

あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。

ヤコブの手紙 5:13-16

祈りはクリスチャンにとっては全能の神への語りかけで、とても確実な行為です。
神様が何のために私を造ったのかも知りませんが、いつも神様の御心に尋ね、祈りと賛美によって神様とコミュニケーションを取り続けたいです。

2018年12月3日デボーション

※ハイクに投稿した文章と同じものです。

 

今朝読んだ箇所から↓

しかし、もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。

ヤコブの手紙 2:8-10

クリスチャンに相応しい行動を心がけてはいるのですが、もしかしたら自分も無意識な差別をしているかもしれないと恐ろしくなりました…。
一人一人が神様に愛されていることを忘れないようにしたいです。

ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。

ヤコブの手紙 3:8-10

はい…。深く反省します…。

2018年12月2日デボーション

※ハイクに投稿した文章と同じものです。

 

今朝読んだ箇所から↓

兄弟愛を続けなさい。旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。

ヘブル人への手紙 13:1-3

そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。

ヘブル人への手紙 13:16

人のために何かをする行為は、自分の時間や財産を人に捧げるという意味でいけにえと同じなのかな、とふと思いました。
そんないけにえを捧げ続けたいです。

パウロの手紙シリーズは終わったみたいで、他の使徒の手紙が始まりました↓

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。

ヤコブの手紙 1:5-6

おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。

ヤコブの手紙 1:23-24

神様の本当の姿を知らないと疑いが起こり、自分の本当の姿を知らないと罪を犯してしまうのですね…。
たくさん知識があるから偉い、という訳ではないですが、知らないことを知ることを怠らないようにしたいです。

2018年12月1日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

今朝読んだ箇所から↓

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

ヘブル人への手紙 11:1-3

 

私は天地創造の瞬間はもちろん、イエス・キリストにだって会ったことがないのですが、それでも信仰を持っているのは神様の御業があってのことだなぁと思います。
見たことないものを信じるって、なんかすごいですよね。

 

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

ヘブル人への手紙 11:16

 

聖書に登場する信仰者たちの中にはこの世で栄光を受けず、迫害されたまま命を落とした者もいます(ってなことがこの箇所の前後に書いてあります)。
ただ、その人たちは肉体が死んだ後、天国で栄光を受けるのだと思います。
その望みがあるからこそ、この世で迫害され、辱めを受けても信仰を守れるのだと思います。

 

あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。

ヘブル人への手紙 12:7

 

訓練…頑張ります…!

2018年11月30日デボーション

※ハイクに投稿したものと同じ文章です。

 

いけないいけない、デボーションを投稿するの忘れてました…。
今朝読んだ箇所から↓

 

おおよそ、大祭司が立てられるのは、供え物やいけにえをささげるためにほかならない。したがって、この大祭司もまた、何かささぐべき物を持っておられねばならない。そこで、もし彼が地上におられたなら、律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが、現にいるのだから、彼は祭司ではあり得なかったであろう。彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。ところがキリストは、はるかにすぐれた務を得られたのである。それは、さらにまさった約束に基いて立てられた、さらにまさった契約の仲保者となられたことによる。もし初めの契約に欠けたところがなかったなら、あとのものが立てられる余地はなかったであろう。

ヘブル人への手紙 8:3-7

 

クリスチャンでない人から見るとイエス・キリストユダヤ人たちの信仰が誤っていたのでそれを正そうとした、という風に見えるかもしれませんが、当時のユダヤ人たちは神様との「旧」い「約」束を守っていただけなんよね。
エスがもたらした「新」しい「約」束は救いをユダヤ人以外にも広げました。ありがてえです。

 

こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。

ヘブル人への手紙 10:11-14